読む気も起こらないが、誰やらいう作家の何とかいう小説が結構売れてるらしい。その小説は何でも、悪いことをした生徒を、教師がその罪状を数え上げながら一人ひとり処刑していくというお話だそうだ。それを聞く限り、要するに度量の狭い教師が自分の手に余る生徒を殺してしまうという下らない話にすぎないわけだが、そんな小説が「小気味良い」といった理由で受けてしまうというあたりが、いかにも最近の情けない大人が作り出す情けない世相を反映している感じで、何とも不快である。

 若い頃は、気に食わない奴とはケンカをすればそれですんだ。相手はたいがい自分より年上だったり、社会的地位も上だったりしたからだ。しかし、大人になるとそうもいかなくなる。気に食わない相手が自分より若かったり目下だったりすることも多くなるからだ。しぜん、人間は思慮深くなる。感情にまかせてケンカに及ぶといったことはしなくなる。相手の立場や、お互いの置かれた関係をきちんと考えて、理性的に対処するようになる。これが大人になるということだ。

 ところが最近の、少年犯罪への重罰化が議論されたり、石原慎太郎の「第三国人」発言が受けてしまったり、「被害者の人権」がやたらと言いたてられて、それが死刑制度の存続や加害者への厳罰を望む世論に転化されるといった世相を見ていると、スッキリと大人になりきれない、ひねこびてウジウジしたガキみたいな連中の声がやたら幅を聞かせているのを感じる。

   
text/大須賀護法童子

p r o f i l e
 

 

 

 

 

 やっかいなのは、こうしたひねこびたガキの言説は、ややもすれば大衆受けしてしまうということだ。「俺は子供の頃に外国人にイジメられた。外国人を差別して何が悪い」とか、「俺の職場は女が強いから男女平等には反対だ」といった「本音」は、実はいつだって庶民の間で人気がある。ただ、まともな大人はそんな感情論を相手にしないだけの話だ。死刑制度の廃止を決めた国だって、国民投票をすれば死刑存続の票の方が多いだろう。しかし、ガキが何と言ったって、人命尊重の理念にもとる死刑制度は廃止しなければならないのである。

 もちろん、この手のガキの言説の最たるものは「新しい歴史教科書をつくる会」の主張で、あれに賛同する連中の話を聞いていると、「欧米諸国は植民地支配を反省してないのに、何で日本だけが…」とか、「他国の教科書はもっと自国中心的なのに…」といった泣き言ばかり。要するに「自虐的」なのはあんたらなんとちゃうの?

 と言いたくなる。

 この手の言説の本質をなしているのは「自助の精神」の欠如である。被害を受けたり、つらい状況に置かれたりしたのなら、自分の手でそこから脱し、そんなことが二度と起きない状況を自分の責任で作り出していく。泣き言を言わず、背筋をしっかり伸ばして自分が置かれた状況を直視し、主体的に対処していく。そうした自立した大人の態度を欠いているのである。しゃがみこんでまわりを見渡しながら、ブツブツと「本音」をつぶやいていれば、誰か強い人がやってきて敵をやっつけてくれる…。そんなひ弱な心性が招き寄せる社会体制はファシズムだけに決まっている

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