もちろん、じゅうぶん信じられることではあるものの、3人の息子たちがまさに三様であることは、わたしにとってつねに新鮮な驚きの種となる。もっとも、その逆、つまり3人が、さらには妻とわたしを加えた5人が、ちょうどカーボンコピーされた数葉の紙のように濃淡の相似をなしていることに対しても、しばしば驚きを禁じえない。それは、家の中に起居する子供が1人または2人ではなく3人であること、家族が全員で3人または4人ではなく5人であることに対する驚きといえるかもしれない。たまさか子供がひとりしかいない家庭に夕食を招かれたりすると、あまりの静けさにわたしは内心とまどい、この状態はまるで子供がいないも同然と錯覚し、どのようにふるまうべきかを忘れている自分を発見することになる。もちろん妻とわたしも、短い手足を振り回したり、はっきりした理由もなく泣いたりしている長男のおむつを替えることぐらいしかやることのない、夢の中のような静かな夜を過ごした経験は、たしかにあるのだが。

 年賀状を機に、高校を転校して以来音信が絶えていた友人といよいよ再会することになり、その当日に互いの子供を一人選んでお供にしようという話になったとき、妻は、うちには顔はいいけど性格悪いのと、いい子だけど怒りっぽいのと、ベタベタうるさいのがいるけどどれがいいかな、と冗談半分のメールを送ったものだが、そんな三人の相違という問題こそ、不断にわたしたちの家族五人を呪縛しているものである。

 別の機会、たとえば妻とわたしが息子たちに対する漠然とした期待を(冗談にことよせて)口にしあう際の3人の相違点──あるときはルックスといい子(ぶりっこ)と運動神経という3つの角度において、あるときは優しさや繊細さの質の違いにおいて、あるときは日々の騒々しい食事における好み、というか、好き嫌いにおいて、そして誰が臆病で誰が大胆かといったことや、わたしの父母が3人に接する態度の相違において、それは逆に、おじいちゃん、おばあちゃんに対する3人の接し方の相違としてはね返り、妻とわたしを悩ませる話題にもなるのだが、いずれにせよ、3人が三様に異なることが生活をこれほど複雑にするものかという驚きが、間断なく訪れるのである。

 ある朝、出勤の支度をしているわたしの耳に、兄に向かって二男が「夕べはごめんね」と謝っているのが聞こえ、それは前夜の寝しなに自分が兄の掌に歯形をつけたことをいっているらしかった。妻の話では、人に噛みつくのは犬の子供だと散々に叱られて文字通り泣き寝入りしたらしい。ことの起こりは、例によって下の2人の争いに長男が割り込んだとのことだが、とにかく似ていて違うこの3人の喧嘩というのも、妙なものである。

 自分の持ち物(ポケモンキッズの指人形など)で二男が遊ぶことをしぶしぶ許していることから、長男は、三男が二男のものを使うことを二男も容認すべきだと主張するのだが、二男のほうでは、そもそも兄ばかりポケモンキッズを買ってもらってずるいのであって、自分だけの玩具は <少ない> のだから弟に貸すなんてもってのほかだと思っており、さらに問題の焦点になっている玩具が、長男が二男に貸したものだったり、二男と三男の間で交換の契約が締結されたものだったりすると、ことは容易に膠着状態に陥る。ここには、妻もわたしも口をはさみにくい(どちらの援護をするのも戦略的に得策でない)深い対立が横たわっている。公平性や正義を口にする長男にしろ、自らアンフェアそのものの行動をとることのほうがむしろ多いのだし、それどころか、一方の肩をもってもう一方を糾弾するときは、たいてい、目の前の対立とは無関係な自らの欲望の邪魔をされたくないだけなのだ──とくに、自分が楽しく観ているテレヴィの前で2人の弟たちが言い争いを始めたりしたときなどには。

 それからまた、二男の玩具が少ないなんて言辞にはもちろん真実のかけらすら含まれておらず、ただたんに細かい関節部品の多いロボット状の人形が何よりも好きなくせに、それをすぐバラバラに分解してしまい、家の中のどこかに存在しているらしい虚数空間だか <ディラックの海> だかの彼方にそれらを見失ってしまうだけのことだし、その点に関しては、担任の先生によって忘れ物の王様の称号を授与された長男よりも、二男のダラシナサのほうが完全に上回っているように見受けられる。ちなみに末の子はというと、これはたとえそれが誰のものであろうと遊びたいもので遊ぶという基本的態度を貫いており、取り上げ(取り返され)ようものなら大泣きしつつ「もう出てく!」と玄関めがけて走っていく(時々、本当に「出てく」ので、そのときには玄関ドアが開いたり閉じたりする音がしないかどうか、皆、静かに聞き耳を立てる)という行動が続いており、二男との衝突の機会が圧倒的に増えてきた。