who?

  8月某日 薄曇り  

 

7月某日 曇りのち豪雨

8月某日 快晴

9月某日 曇りのち晴れ
9月某日 晴れ

10月某日 曇り

11月某日 快晴
11月某日 快晴

12月某日 晴れのち雨
12月某日 晴れ

2月某日

 

 

 植えてから二ヵ月ものあいだうんともすんとも言わず、とうに忘れていた種のひとつが芽を出した。いつも、なかなか植物をうまく育てられないのを気にしていたので、何かがうまくいきそうな吉兆のようにさえ思えてその小さな芽を眺める。ふと、そのとなりに、いまだ芽が出ず、はて、一体何を植えたのかさえ忘れてしまった鉢が目に留まる。たしか、友人のQがふらりと訪ねてきたときに、ベランダに置いていったものだ。Qに忘れ物をしたようだと電話をすると、贈り物というわけではないがとにかく預かってほしい。といわれた。なんの種が植わっているのか訊ねても、笑ってごまかすばかりでらちが明かない。それでいて、悪いが毎日その鉢にひとことでいいから話し掛けて欲しいといわれた。そうしてくれるだけでいいのだと。わたしはわけもわからずに、毎日、水をやるかわりに声をかけた。「おはよう」「いい天気だね」「今日は寝坊しちゃった」「じゃあ、またあとで」と。でも、そこには黒い土が入っているだけで、芽吹く気配もない。黒い土は、空洞で底のない闇のようにもみえる。今日、久々にその鉢をまじまじと眺めていると、Qから、二ヵ月ぶりに電話があった。なにか、遠くから話されているような変な感じがしたので、そう言うと、Qは、特殊なエフェクターでもかけたかのような不思議な声で「そうかしら。随分、元気ではあるんだけど」といって、笑った。「そういえばあの鉢、どうなってる?」 と彼女のほうが切り出した。「ええ、毎日水のかわりに声をかけているわよ」「そう、なにか出てきたかしら」「さあ」わたしは、彼女のいつもなにやらもってまわったような言い方が以前から少し気に入らなかったので、思い切って強い調子で言ってみる。「なにもないんじゃない?どうせ。わたしをからかってるのよね」「そんな。からかっているなんていうことはない。ただ、少し、時間がかかっているだけ」「一体、なにがはえてくるっていうのよ」「糸杉よ」「ひまわりの間違いじゃないの?」わたしは、馬鹿馬鹿しくなって言った。「そうね、ひまわりかもしれないわ」「つまり、ゴッホの絵でもはえてくるということかしら」「ほんとのところ、何がはえてくるのかわたしにもわからない」「なにも、埋まってないのね」「いいえ、埋まっているわ」「何か教えて頂戴」「耳よ」「誰の?」「わたしのよ」わたしは、薄日のさすベランダの、その鉢を遠くからじっと見た。「あなた、今、どこにいるの? 声が聞き取りにくいんだけど」「もう、あまり時間がなくて。とりあえず、わたしの耳がどうなったか知りたかった。本当は、きっとツルバラが生えてくるのだと思うわ。子供の頃バラの実をよく食べたから」「どこにいるの?」「土の中よ」彼女の声はほとんど聞き取れない。わたしは、受話器を当てていないほうの耳を押さえて、神経を集中させる。「ふたりでした耳の話、思い出して」電話は切れてしまう。ふたりでした話ってなんだろう。わたしは、黄変してしまった昔のスケッチブックを何冊も引っ張り出してみて、その中に耳ばかりを描いたスケッチを見つける。彼女の白く形のよい巻き貝のような耳がたくさんならんでいる。そうだ、このデッサンをしているとき、なぜゴッホは自らの耳を切ったのかについて、ふたりで話していたんだっけ。ゴッホは彼が行ってしまった世界を目指してあとから来たもののために、耳という道標を残しておきたかったのではないか。そう彼女は言ったんだった。耳を切った自画像は、彼だけが住む音のない絵画の世界にあって、わたしたちが住む現実の世界には彼から切り離された耳だけが残されたのだと。彼女はどこへいってしまったのだろうか。やはりあの白くて美しい耳だけを残して。わたしは、ベランダに出て、Qの鉢を手に取ってみる。一体なにが生えてくるのか、これからも声をかけて確かめなければならないのだ

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