以前寺山修司の「わたしのイソップ」のことをあるところで書いたことがある。そのエッセイは後日談も添えて自分のホームページに載せてあるので繰り返しになってしまうが、ぼくが最初に現代詩なるものに出会ったのは寺山修司の詩であったと言ってよい。ぼくにとってこの詩は長い間 <幻の詩> であったのだが、『現代詩人全集・第十巻・戦後2』(角川文庫)から引用する。
わたしのイソップ
恋人と
公園のベンチに腰かけていたときだった
わたしは突然
新しい言葉を発見した
マダガスカル島語よりもやさしく
ラテン語よりもひらたくて
意味がないようで 有り
有るようでない
言語ヨットの操縦法
外国へ行ったみたいね
と
恋人がその言葉で言い
わたしは言語学者のように その意味を
解釈し 鑑賞した
ところがある日の夏
その恋人が
市電から落ちて 突然に
死んでしまったのである
木の葉がバケツにいっぱい溜り
公園のベンチに
わたしはひとりのこされた
新しい言葉で
話しかけてみても牛乳政治配達夫は
首をひねった
子供たちは笑いころげて新しい言葉を拒み
ベーカリーでは パンを
売ってくれない
わたしは図書館で調べたが
その新しい言葉の法則に索引はなく
だれにもわかってもらえないということ
がわかり わたしは
言葉とともに泣いたものだ
もしも
べつの恋人を作ったら
新しい言葉が通じるかもしれない
と
精神病院の帰りにわたしは思いつき
電車のなかで
年老いた女学生に微笑したら
女学生も微笑しかえしたので 近寄って
新しい言葉で
話しかけると
女学生は首をかしげて
背中を向けた
わたしはいっそう
声高く正しい発声法を用いて
新しい言葉でまくしたてた
新しい言葉でまくしたてた
女学生はますます背中向きのまま首をかしげ
市電は
海をほとりをすぎ
博物館の前をすぎ
なみだはながれ
それでも
わたしは声高く
両手をひろげて話しかけた
新しい言葉を波のように駈立てて
わかりあうために
わかりあうために
ちなみに今回、思潮社の現代詩文庫版で確認してみるとそこには、これとはかなり違う形の「わたしのイソップ」が載っている。ぼくは上に引用したバージョンが素晴らしいと思っている、『現代詩人全集・第十巻・戦後2』には、他に「残酷な夏」「あなたの思い出」「わたしに似た人」「生まれた年」と載っているが、どれも素ばらしい。
寺山修司は数年前にリバイバル的に再評価というかブームになったが、意外とこれらの詩が取り上げられることはなかった。あまり他の本にも収録されていないようにも思う。理由はわからないが、ぼくはもっともっと評価されるべき作品なのではないだろうかと思っている。