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大須賀
護法童子

 

 

p r o f i l e
 

 

 

 

 


俺は輪を転がさない。輪を転がすための免許をもっていない。このくにの成人男子のほとんどは、輪を転がす免許をくにから与えられている。以前、なごやに行って、俺は輪を転がさないと言ったら、なごやの人はぎょっとした顔をして俺を見た。周知のとおり、なごやの近くには豊田の工場があり、このまちの人々は「輪をもって尊しとなす」という佐吉翁の教えを拳拳服膺している。工場のなかでは世界の人口よりたくさんの輪が、もっと大きな輪にのって回りつづけている。さらに、有名な看板方式によって工場をはみ出た輪は、この島のすみずみまで張り巡らされたもっともっと大きな輪の上を回り、世界を暖めつづける。

表に出ると、四つの輪をつけた体がたくさん走っている。俺はときどき、それがちょっと変わった獣のように見えて可笑しくなる。獣のなかにはもっと小さな獣が乗りこみ、得意そうに輪を回している。この獣の主人はどっちなんだろう。俺のなかにも小さな獣が乗って、ガンダムみたいに俺を運転してるんだろうか。

自分では転がさないが、人が転がす輪にときどき乗せてもらう。すみません、と俺はつぶやいてシートベルトを締める。

ついでに言うと、俺は女も転がさない。女を転がすための免許をもっていない。が、これはまた別の話だ。

最初に輪を転がしたのは釈尊ということになっている。木の下で悟りを開いたあと、釈尊は考えた。私が悟った真理は、言葉によって伝えることができない。私は、黙っていることにしよう。すると、夢のなかに梵天があらわれ(梵天ということは、耳掻きのお尻についてるあれか?)、悟りを人に伝えてくれるよう泣いて頼んだ。夢からさめて、釈尊はむくりと起きあがり、隣り村に住んでいる弟子たちのほうへ歩きだした。あるお坊さんから聞いたことがある。インドに行ってみるとびっくりするって。釈尊が悟りを開いた木の下から、弟子たちが住んでいた村まで、どれだけ離れているか。歩けばひと月かかるような距離なんだって。その長い道のりを、釈尊は牛の群れに混じって歩いた。私が悟った真理は、やっぱり言葉では伝えられない。でも、私は話すことにしよう。釈尊は隣り村につき、そして話した。この出来事のことを、お経では「初転法輪」という。

輪は、ひとたび力が加われば、慣性の法則によって永遠に回りつづける。しかし、誰も力を加えなければ、静止したままだ。

俺は輪を転がさない。輪を転がすための免許をもっていない。

ローリングストーンギャザーズノーモス。もっと転がれ、輪。