「……もう少しで帰れるから、我慢して」

 愛は苦笑しながらも、恋の側に椅子を持ってきて座った。愛も、咎めはしたが退屈なのは恋と変わりない。欠伸が出そうなのを、普段注意している手前、噛み殺した。

「そだね。愛久ちかひさが、美味しい夕飯を作って待ってくれているかな」

「愛久だって二年生だし、忙しいだろうに。夕飯をいつも任せきりなんて……」

 愛は例のごとく注意をくれようとしたが、その声に被せて錆ついた教室の戸が開く音がしたので言葉が途切れた。

「ダーリン!」

あ ら す じ

 とろけるキャラメルボイスが無機質な教室に転がる。と、死にかけていた恋の顔に明かりが灯った。テンションのエンジンがいきなりトップギアに入ったのだ。

「……マイ・スイートエンジェル! 会いたかったよ!」

「三時間だけでしょ、会ってないのは」

 はしゃいで立ちあがる恋に、愛が冷静に告げた。恋は聞くはずもなく、椅子は突き倒されたまま、戸を開けた少女に抱きついた。

「寂しかっただろう、リトル・マーメイド」

「愛しているわ……恋」

 登場するなり恋と抱きあっている少女の名は、新垣菫にいがきすみれ。白崎兄弟が通う高校の二年生で、一年後輩だ。茶色のロングヘアからはいつでも甘いシャンプーの香りを漂わせ、アニメに出てくるヒロインもびっくりの、抜群のスタイルを武器としている。美人ではないが、その大胆さと可愛い仕草で、学校中の男子の心をわしづかみにした魔性の女である。

 が、意外にも、一年半前から恋と付き合いはじめたきっかけは、菫の猛烈アタックだった。一途な菫の告白の末、やはり学校中の女子の黄色い声援を独り占めにしていた恋を射止めたのだ。

 それからというもの、互いに相手を見つけるたび、廊下だろうが職員室だろうがハチ公前だろうが、この調子でラブラブなのだった。うんざりしてくる。

「……でも、珍しいですね、新垣さん。木曜日は塾だから、恋とは帰れないはずでしょう? なぜ迎えにきたのですか?」

「……そうだった」

 呆れつつも客観的な愛の台詞に、恋もようやく思い出したようだ。木曜日は、菫の塾――英会話塾だったと思う――の日であり、一週間のうちで唯一、愛し合う二人が手を繋いで帰れない、孤独な日であるということを。

「ハニー、幾ら僕とくっついていたいからと言って、塾を休んじゃいけないよ。僕はいなくならないのだから、安心して行っておいで」

 心が千切れそうな無念さを堪えながら、恋は腕の力を緩めた。すると菫は困惑した瞳を揺らし、

「……違うのよ、ダーリン」

 と、首を振った。髪の香りにうっとりしそうな怠惰を、菫と同じ動きでやり過ごした恋は、菫の頬を両手で包み込んだ。

「違う……? どうしたの、ハニー」

「あのね……私、困っているの。ダーリン、助けて」

 突然、湧き出すように流れ始めた菫の涙が、恋の手の甲を濡らしていく。その量に比例して、恋の怒りが沸騰した。

「……ハニーを泣かすような野郎はどこだ!? 僕がぶん殴って……」

「……ごめんダーリン、あのね……」

 恋の相手も特定されぬ怒号に縮みあがると、菫はさらに涙を流した。

「困っているのは、私じゃないの。私の友達なの」

「……友達」

「そう、私の親友よ。何か大変なことになっていて……私、どうにかして助けてあげたいの。でも、どうしていいかわからなくて……だから塾を休んで、ダーリンに話そうと思って」

「ハニー……君って子は……」

 混乱の中、懸命に日本語を紡ぐ菫を、恋は再び引き寄せるように抱きしめ た。

「なんて優しい子なんだ!! 友情のために大事な塾を休むなんて!」

「当然よ、ダーリン……だってダーリンの次に大切なのは、自分より友達なんだもの」

「素晴らしいよ、ハニー! 君のためなら、僕は何だってする。そして、ハニーの友達は僕の友達だ! さぁ、その友達のところへ連れていってくれ」

 協力を惜しまないことを匂わせる語尾に、菫の涙が止まる。菫は恋の首に絡みついた。

「ダーリン……大好き!」

「僕も世界一君が好きさ、ハニー !!」

 どうしていかなる時も最後はこのやりとりになるのか意味がわからないが、ともかく、恋が菫の友人を救うために動くのは決定だ。

「ということは……私も始動しますか」

 それは、退屈を払う北風でもあった。

 
 

2005年10月3日号掲載

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