蔵のしたには地下室がありました。ワインやお酒を貯蔵していた酒蔵のようでしたが、なかにはいってみると、鍵形にうねうねと奥行きがあって、酒蔵にしては天井もある程度の高さがありとても不思議な形をしていました。おそらく戦時中に防空壕として作られたものを、大叔父がおもしろがって広げていったものと思われます。わたしの母の実家は鹿児島の素封家でしたが、末っ子の大叔父は資産分与もないかわり家を継ぐ必要もない身軽さから上海へ渡り、薬の卸問屋を開いて成功しました。若くしてひと財産を手にし次に高い身分というような名に憧れた大叔父は、ある旧華族の遠戚の娘の家が傾きかけているので援助してやってほしいという縁談を知人にもちかけられ、令嬢への結婚を申し出るとともに相手側から紹介された池上のこの屋敷を相場の何倍もの高値で購入したのでした。結局その令嬢とは折り合いが悪くなりすぐに別れ、その後二度ほど結婚し子供ももうけましたが、二番目の奥さんと別れてから亡くなるまでの10年間は子供たちにはこの家以外のすべての資産を分け与えたまま連絡をとらず、寵愛していた叔母をそばにおいて、贅沢をするでもなく、しずかにふたりでここで暮らしていたようです。わたしは子供の頃母にいいつかってよくお使いに池上まで来ました。ときには泊まる事もあって、そんなとききまって大叔父は「ことちゃんは、なをさんの養女になったらどうだろう。このまま洗足には帰らずこのうちから学校へ通ったらいい。明日おじさんがあんたのお母さんにそういってやるから、明日からここの家の子になったらどうだろう」などと、小学生のわたしをからかって困らせるのでした。叔母がこの家に来た時、近所では随分と若いきれいな後妻さんが来たと噂されたそうですが二人ともそれを否定する事なく、そのような勘違いを少しおもしろがっているようでした。二人は確かに仲の良い夫婦のようでもありましたが、大叔父が「なをさん、なをさん」と呼ぶ声は、わたしの父が母を呼ぶような声とは少し異なり、あふれでてしかたのない想いを懸命に押し殺しているかのようなせつなさと、大切なひとが自分のために女性としての貴重な時間を犠牲にしているのではないかという自責のせつなさとがあり、今にして思えば、ふたつのせつなさはあいまってどこにも存在しないような男女のありかたを形作っているようでした。おそらく、一度もふれあうことなどなかったであろう二人なのですが、大叔父の呼ぶ声にはほんとうは彼女の体のなかまでとどいているのではないかという触感のようなものがあり、少しおませだったわたしはあの声を耳にするたび、なにかそこにいてははばかれるのではないかという気になってひとり心臓を高ならせていました。いまでも、わたしはあの声以上の女性への愛情のこもった呼びかけというものをきいたことがありません。はじめて地下室にはいったとき、わたしは確かに大叔父のあの呼びかけを聞いたような気がして彼等のことを懐かしく思い起こしました。蔵にも、地下室にも、二人の亡霊のようなものがまだ住み着いているのでしょうか。
 地下室には鍵型の空間の先にそれぞれ蟻塚のように房状の部屋のようなものがあり、そのひとつにはお酒を寝かしておく棚がありました。古いワインなどがかなりおいてあって、その銘にはわたしでもその名を知っているような高価なもの希少なものもいくつかありました。いままでワインの銘など気にもしませんでしたが、さすがにこれだけの宝物を目にしてみると、お酒についての知識欲のようなものに突き動かされるものです。これをひとりで楽しむほどの酒好きというわけではなく、そのようなものを一緒に楽しむような恋人も友人もいませんでしたので、せっかくならばこの面白い空間でお酒だけを出すような小さなお店を開くのはどうだろうかと思いたち、四年間ほどかけて会社勤めをしながらの準備を両親の反対を懸念しつつ密かに推し進めました。生涯独身をとおした叔母とおなじにわたしも結婚というものにまるで興味がありませんで、なんとかこれから食べるに困らないような方法を考えなければなりませんでしたが、勤めはわたしのような性格のものには不適で、かといってなんのとりえも技芸もありませんでしたから、このような商売はわたしにとって行きついて然るべき仕事であったのではないでしょうか。