駅を取り囲む繁華街を抜けると、一方通行の多い住宅街があります。細く勾配のきつい坂道を、自転車を押しながら上ってくる主婦や学生などとすれ違いながら、下っていきましょう。

 豚カツ屋の角を曲がり突き当たりを右に折れると、旧川越街道から少し外れたところに、小さなアーケードを構えた商店街があります。カレーの不味い鶴亀食堂、双子の主婦が営む喫茶ジェミニ、草もちの美味しい伊勢屋などがあるものの、二店ほどあるコンビニのおかげで、シャッターの開いている店の方が少なく、見渡せば、冬だというのに電柱に吊るされたままの七夕の飾りが揺れています。

 その商店街に紛れた一軒、「装いマナー常識研究所」に、今藤征一郎さんと美鈴さんという、夫婦が住んでいます。

 どぎつい紫のビニール地に、その意味不明の

「装いマナー常識研究所」

 という屋号を白で抜いたノボリが、いつからはためいていたのか、商店街の住人も数人がぼんやりと覚えている程度。天気の良い日など、中から老夫婦が出てきてはガラスのサッシ戸の前に仲よく並び、道を行く人に丁寧な発音で「こんにちは」と声をかける。しかし老女が身に着けている古びたフランス人形のようなドレスと、老人の燕尾服にシルクハットという出で立ちに、大抵の人はギョッとした顔で目をそらし、足早に通り過ぎていきますが、夫婦はニコニコと、ともに人懐こい笑顔で見送ります。その他にも、月に何度か近くの公園に現れては、ゴミを拾ったりトイレの掃除をしたりもしています。公園に集まる子供連れの若い主婦達も、今ではすっかり慣れ、多少の会話はありますが、二人のことを詳しく知る人はいません。そして、季節ごとに時間の変わる「夕焼け放送」が役場のスピーカーから流れると、周りの人と、道路へ一礼して家へと帰ります。

 近所の人の噂では、昔女優だった女と、いくつもの特許を持った発明家の夫婦で、子供はなく、今では惚けてしまった夫に妻がつきあうかたちで、暮らしているとのこと。夫の方は常に何やら独り言を言ってはいますが、これといって害もなく、老女に関しては普段はまったく普通の格好で買い物をしていたりもするので、地域の人々の間ではそれなりに親しまれています。

 夫のかねてからの口癖は「世の中を良くしたい」であり、妻はいつも、柔らかく微笑んでいます。互いを「征さん」「美鈴」と呼び合う、風変わりではありますが、ともに良い顔をした、二人であります。

「玄関で靴を履こうと身を屈めたとき、ドカという大きな音がして、通りからいくつかの悲鳴と人の集まる声がしてきた。何事かと表へ出ると、信号機の脇に人だかりがある。向かいの豆腐屋の奥さんが血相を変えて私に向かってくるので、少し恐ろしいような気持ちとなる。聞くと美鈴が車に轢かれたという。よく意味がわからなく、それはどういうことですかと尋ねると、豆腐屋の奥さんは私の手を引いて人だかりの中心へと導いた。

 道には美鈴が倒れており、腕からたくさんの血が流れておる。体から力が抜けて、為す術もなくただ、ああ、ああ、と声を出して近づく。まだ歳の若い青年が妻の脇にいて呆然としているので、それでは彼が運転手に違いないと、持っていたステッキで叩いてやろうと思うのだか妙に体がフワフワとしてままならず、いらつく。

 ドレスが、こんなに汚れてしまっているではないか。これは十六、七年前、なにかのパアテイ用に特別に仕立てたもので、美鈴がいちばん気に入っている一着だ。それがなんだ、こんなに血やら何やらで汚れてしまって。腹の下には豆腐が潰れていて、ピンクみたいな色をしていて気持ちが悪い。触る気にもなれない。誰かが、すぐに救急車が来ると私に告げたが、何が来ようと無駄な事だ。

 ……美鈴は、死んでしまったのだ」

 燕尾服姿の征さんは、真っ青な顔でウンウンと唸りながら、倒れている美鈴さんに背を向けると、人垣を押しのけ立ち去ってしまいました。

「私は葬式の準備があるので忙しくなると思う。救急車が美鈴をもっていき、葬儀屋がもって帰ってくるだろう。喪服に着替えなくてはならない。」

 そしてそのまま、玄関を入ると、征さんは中から鍵をかけてしまいました。

「家へ引き返す私を幾人かが引き止めたが、急いで台所で耳を聞こえないこととしてから、鍵を締め、チェーンを掛けようとするのだがよく見えず、捨て置く。妻が死んでしまったので涙が出る。」

 征さんはそのまましばらくの間、上がり框に腰が抜けたように座り込んでいました。

2007年3月26日号掲載
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p r o f i l e

「水の環」連載開始にあたって
冷泉長門(れいぜん・ながと)氏は、エンジニア出身で葬儀屋、バーテン、緊迫師助手など異色の経歴をもつ方だが、俳優の高嶋政伸氏らが主宰する「リーディングセッション」という <朗読会> の作家でもあり、公演では失神者を出したという或る短編の書き手である。
いわばと言うか、プロの書き手なので、同人誌である電藝に参加していただくにはいささかのためらいもあったのだが、完成度の高いその作品を掲載したいという欲望にさからえず、なにか面白いことやりましょうとの同意のもと、加わっていただくことに。
本号より掲載を開始する(12回程度の連載を予定)短編「水の環」は、3部作のひとつだそうである。

へんしう長
2007.3.26