けたたましいサイレンを鳴らしながら走る救急車の中では、美鈴さんが応急処置を受けています。幸い腕に数針縫う程度の裂傷と、背中の打撲程度の怪我ですんでいます。事故の時の大きな音は、車が電柱にぶつかったためで、状況的にはUターンしようとした車の後部に引っ掛けられたという感じ。ショックでまだ体は震えていましたが、意識はしっかりとしています。しかし今は痛みよりも、夫のことで頭がいっぱいです。
放心して倒れていたとき、夫は側まで来ておきながらなぜ引き返していったのか、わからない。豆腐屋の奥さんが付き添い、しきりに声を掛けてはいるのですが、彼女の耳にはまるで入ってはきません。
なぜ征さんは、引き返して行ったのか。
「あの人は何か、ひどくがっかりした顔をしていたわ。ええ、私を心配するというふうには見えなかったし。動きも何処かゆっくりで……。いたた、背中が痛い。あの人一人で大丈夫かしら。冷蔵庫の中のもので適当になにかこさえて食べてくれるといいんだけれど。ああそうだ、豆腐屋の奥さんにお願いしてみようかしら」
「あの……」と美鈴さんは豆腐屋の奥さんに声を掛けました。最初は盛んに話しかけていた豆腐屋の奥さんでありましたが、その時はただ脂汗をかきながら老女の手を取って「大丈夫、もうすぐ病院だから」とうわごとのように繰り返していたので、不意をつかれたように、ぴょこと飛び上がります。
「ななな、なに、いたいの?」
美鈴さんはその反応を見て、考え直すことにしました。
「病院で治療したらすぐに帰してもらえるはずだわね、ああでも、もしかしたら精密検査なんかもするのかしら。車に轢かれんのなんか初めてだけど、なんだかややっこしいことになっちゃった。あの人の独り言にこの人耐えられるわけがないし、ましてや他人様に下の世話の面倒までお願いできるわけが無いもの。一日くらいなら何とでもなるでしょ…」
「なに、なに?」 と懸命に聞き返す豆腐屋の奥さん。 老女は顔をしかめて「ウウーン」と呻くと、目をきつく閉じて「イターイー」とごまかしました。
そんな美鈴さんに、なぜか「ごめんね、ごめんね」と謝る豆腐屋の奥さんでした。
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美鈴さんは一刻も早く家に帰りたがったのですが、医者に引き止められ一日入院しました。取りあえず実費で、馬鹿みたいな値段の治療費を払い、包帯が巻かれ麻酔の切れた右腕をかばいながら、美鈴さんはふらふらと家路につきます。何度も自宅に電話を掛けてはみたのですが、征さんが出ることはありません。何となく嫌な、予感めいたものを胸にしたままの道のりでした。
バス停から商店街へ入ると、すぐに「装いマナー常識研究所」のノボリが見えてきます。たった一日の入院でしたが、美鈴さんはそのノボリを、懐かしいような思いで目指しながら歩いていきます。
ふと、いつもと何処か様子が違うように感じ、美鈴さんの胸の中で薄い煙のようだった予感が、濃く集まっていきます。
ついに家の前まで来ると、美鈴さんは愕然としました。彼女の目にまず飛び込んできたのは、黄色の画用紙に墨汁で書かれた「もちろんバイクもハンドル」という文字だったのです。
「なかなか葬儀屋が来ない。電話をしようにもいったいどこの葬儀屋なのか。それにこの数年私が電話なんぞすることはなかったのでもう、電話機の使い方を忘れてしまった。美鈴が横に居らぬ夜を過ごしたのもいつ以来なのか。ああ、美鈴は死んだのだ。つぎから涙が溢れる。昨日のうちに葬式の準備をしておいて良かった。表の標語を目印に、葬儀屋は迷うことなく美鈴の体をを運んでくることだろう。
おお、こうしてはおれない。美鈴をあの世へ返す練習をしなければ。あれは私を惚けているなどと言っておったが、そんなことあるわけが無い。現に何から何までよく覚えておるし、こうして妻にできる最後のことを思えば、私が人間として正しく、善いものだということが判る。表の飾りと標語はあれで足りるだろうか、何しろ美鈴は交通事故で死んだのだ。二度とあのような悲惨な出来事が起こらぬよう、きつく世の人々へ呼びかけなくてはならない。
念のため今一度、飾り残しがないか美鈴の箪笥を確認しておくか……」
2007年4月2日号掲載
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