美鈴さんはしばらく家の前で動けなくなっていました。
ガラスのサッシ戸の内側から通りへ向けて、色とりどりの紙に黒や朱の墨汁で書いた標語めいたものが、大きさも様々にガムテープで貼り付けてあるのです。さらに軒には古い鳥籠に詰められたり、ハンガーに洗濯バサミで留められた美鈴さんの衣服や、若い頃からの下着などが所狭しと吊るされています。ブラジャーやシミーズなどはクリスマスツリーの飾りのように、下に置かれた盆栽に盛りつけてあり、「新婚旅行」と書かれた画用紙にはレースの手袋がセロテープで標本のように留めてあったりもします。足下近いガラス戸の内側を見れば、結婚式の記念写真や、若いころの華やかな席での写真が、やはり外へ向けて並べられていて、一見するとどことなく中学校の文化祭での模擬店のような風情。しかし、乱れてはいるものの達筆な筆で書かれた標語のようなものを読んでみると。
「親戚の供養に車で行った帰り、救急車入口裏口にあり」や、
「運転手がこれやったら大変です。田舎と言えども理由には無理。殺す予定の人物を乗せた場所にてバスを止め、仕事をしてから谷にでも投げたのでしょう、子供でしたかなど知りたくもないのでもっと隠れなさい」
「ブチバガジャー、知らんぞー、知らんぞー、知らんぞー」
などなど。
沈没を予言された船の満艦飾のように、凄まじく不吉な印象を通りに向かって無差別に撒き散らしています。さらにサッシは内側からガムテープで厳重に目張りがしてあるため、美鈴さんは仕方なく裏の玄関へと回り込みました。腕の痛みのため、下駄箱にもたれ掛かるようにして靴を脱ぎ家へ一歩足を踏み入れた途端、美鈴さんは驚きで再び目を見張りました。廊下が水浸しなのです。それこそ水溜まりを歩くようにチョンチョンと居間に辿り着くと、やはりここも水浸し。美鈴さんはわけがわからなくなりました。
お風呂場の方で人の気配を感じ、恐ろしくなった美鈴さんは征さんの姿を探します。そうっと八畳間の襖を開けると、夫は居らず、敷居のおかげで水からは守られていましたが、箪笥の引き出しは階段のように開けられ、女優時代のものも含め足の踏み場もないほど衣類が散乱しています。ここでも美鈴さんはしばし呆然の体。突然背後からドスドスと歩く音がしたので、悲鳴を喉元で堪え、慌てて襖のかげへ身を隠しました。そしてしばらく息を殺しながら慎重に気配をはかり、こくっとつばを飲み込むと、美鈴さんは居間をのぞき見ます。
見慣れた燕尾服にまずはほっとする美鈴さんでしたが、その夫は部屋の中央で、水の入ったバケツを持った仁王立ちの後ろ姿。
「征さん?」
怯えながら問い掛ける美鈴さんに気付く様子もない征さんは、刈り上げのうなじをを桃に染め、ついとやや上を向き、唐突に「いよおおっ!」と叫ぶと、中腰に構えたバケツの水を、渾身の力で天井にむかいブチ撒きます。
美鈴さんは驚いて襖のかげへ避難しますが、跳ねた水はアニメーションの様に、枯れた畳に染みを付けていきます。
「征さあん」
力ない美鈴さんの呼びかけなど征さんには聞こえません。耳をガムテープで塞いでしまっているのです。背中を向けたまましきりに首をかしげたり何か独り言を言うのみで、ふうと大きなため息をつくと、征さんは妻に気付くことなく「少し休もう」と言って、ぬれた足音を聞かせながら二階へと上がっていってしまいました。
取りあえず衣類を一ヶ所に集めながら美鈴さんも大きなため息をつきます。
「まあまあちょっとこれは困ったことになっちゃったわ。こんなに水浸しになったら普通いったいどうやって後始末すんのかしら」
血で汚れたドレスは病院で始末してもらい、かわりに豆腐屋の奥さんが貸してくれたブラウスにカーデガンを着た美鈴さんは、普通の怪我した綺麗なお婆さんです。手持ちぶさたに薄物などをたたみながら部屋の隅っこに姿勢よく正座すると、少し考えてみることにしました。
「つつつ、正座するとちょっと痛いわねこりゃ」
足を崩し、壁にもたれる美鈴さんでしたが、地方での公演やテレビの脇役が主だったにしても、さすがは元女優です。私生活で殊更女優ぶったりすることなどないとはいえ、辰巳産まれの血のせいか、いざとなれば凄いほどの侠みを見せる、性根の座りも備えた老女。それほど動揺している様子はありません。
「とりあえず着替えてから、豆腐屋の奥さんに話を聞いてみて……。ああそうね、なにかちょっとしたもんでも包んでかないとあれだわね」
借りた服はクリーニングに出してから返すことにして、ほとんど封を開けていないお歳暮のなかから適当なものを見繕い、丁寧に包み直すと、少し厚着をして美鈴さんは部屋を出ました。
お手玉のかたちにした靴下を持ち、濡れた廊下をぴたぴたと行き、下駄箱の上にある雑巾でよく足を拭いてから、靴下と靴を往生しながらやっと履き終えるころには、いつの間に下りてきたのか、背後からは、征さんが元気よく例の作業を再開する声が聞こえてきます。
「まあま、なんとかなるでしょ」
2007年4月9日号掲載
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