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豆腐屋さんはいつも通り店を開けています。夕暮れどきの混雑も一段落して、店先では奥さんと、隣の畳屋さんの旦那が煙草を吸いながら立ち話をしています。少々ふらつきながら近づく美鈴さんに先に気付いたのは、畳屋のほうでした。観察するような目のまま引き攣ったように笑顔をつくる畳屋の視線に、豆腐屋の奥さんも振り返ります。濡れた足下に煙草を放り、白いゴム長靴で踏み消すと、紺の前掛けで手を拭きながら豆腐屋の奥さんは美鈴さんに駆け寄りました。
「あらあらー、今藤さぁん。どうなの、何針? もういいの? ふらふらしてるじゃなぁーい」
「いえ、怪我はたいしたことなかったみたい。何かいろいろとお世話になって……」
美鈴さんが手渡した包みの目方を量るように受け取ると、豆腐屋の奥さんは急に真顔になり、畳屋の旦那に目で合図を送ります。畳屋は「へへ……」と笑うでもなく顎を掻くと、ぺこりと頭を下げ去っていきました。
「それでね、怪我してるのにあれなんだけど……」
装いマナー常識研究所のノボリにチラと目を遣る豆腐屋さんの奥さん。
「お宅の旦那さん、いったいどうしちゃったのあれ。私が病院の場所を教えにいってもずっと鍵掛かってて……。かと思えばいつの間にかあんなに飾り付けちゃったりなんかして。そうそうそれに今朝なんか畳屋さんちに勝手に上がり込んで、葬儀屋が来ない葬儀屋が来ないって。畳屋さんが何とかなだめて家に戻したけど、なんかお宅の旦那さん耳にガムテープ貼ってたらしくてそりゃあもう苦労したって」
小学校の先生に言いつける女子のような口調で一気にまくし立てる豆腐屋さんの奥さん。
美鈴さんはそれを聞いた途端、ぞうっと、普段よりも深いところから鳥肌が立つのを感じました。
「あのひと、私が死んじゃったと思い込んでるんだわ」
さらに豆腐屋の奥さんは喋りますが、まともに耳には入らず、老女は力ない相槌を打ちながら、ぼんやり立っていました。
「これは……ちょっと。力がいるわねえ」
「装いマナー常識研究所」の中では征さんが丁度、何度めかの休憩をとっているところでした。びしょ濡れの体から微かに湯気を立ちのぼらせ、分厚い水苔のようになった絨毯のうえで、空を仰ぎ見るように足を投げ出して深呼吸をしています。
昨日からなぜか、考えていることをそのまま口に出すようになっている征さん。耳が聞こえないせいもあり、ボリュームが出鱈目なうえ、空中を睨み訴えかけるような口調は、相当にうるさいです。
「美鈴わーぁ死んでしまいましたがぁ、どうゆうわっけっかっ、私は生きております。あれわぁ二十年ほど前ぇ、私が四十八、美鈴が四十三の夏でしたっ! 埼玉のお、長瀞という場所に二人で旅したときのことお、私達わあ、ライン下りの船に乗ったのでした!」
選挙演説の様な喋りですが、息継ぎも気にしない征さんは、時折「カヘエッ」と息を吸うと、絞りだすような声でさらに続けます。
「渓流の流れはとても激しく、私も、他の乗客の皆様もびしょ濡れになりながら、そして船頭さんの軽やかな身のこなしや、竿さばきに見蕩れつつ、近くの者やへりなどに必死になってしがみついているしかなく、いかな私といえども美鈴を思いやる余裕さえありませんでした。しかしそれはとても愉しくスリリングなる時間で私もすっかり童心にかえった様な気がして、キャーと言って笑いながら、目を合わせた美鈴を心の中で母のように頼りにしたものでした」
征さんは目を潤ませますが、自らを励ますように声を出します。
「流れの、緩やかなところへ差し掛かったとき、それはまさしく絶景でありました。中国の山水画のようなたくさんの岩の谷を進む船の先を、鳥がじゅううおうに飛び回り、岩の上の方にたたずんだ緑の木々の頭を舐めるように、空の大陸の様な入道雲がずらーっと、ずらああっといましたのです」
征さんは、うっとりと瞳に景色を呼び戻します。
「私はポーっとなってそれらを見ていました。そして何かの拍子に大きく船が揺れたとき、私は美鈴を見ました……」
もはや征さんの目にはその景色がはっきりと見えています。
「なぜですか美鈴は乗客の中で一人だけ立っていました。ざぶーんという音がして川の水が、船に被さるような岩肌に跳ねたかと思うと、そのなかの、しぶきの一かたまりが、美鈴のほうに降ってきたのです。そして、立ったままの美鈴の頭の上で丸く環のようになり足下にターンと落ちたのです。頭の先から船の床まで水の環は崩れず、それに、美鈴は水に濡れてはいませんでした」
征さんは宙を見たまま、ため息をつくと少し満足したように、にっこりと微笑みました。
美鈴さんが玄関から入ってきたのも気付きません。豆腐屋の奥さんに借りた白いゴム長でちゃぷちゃぷと歩いてきた美鈴さんが肩に手を掛け揺すっても、征さんはまるで寝ている人のように鬱陶しげに手で払ってしまうのでした。
2007年4月16日号掲載
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