text/吉田直平

p r o f i l e
 かつての若い恋人から借りた小説を当時持ち歩いていた鞄の底に発見したのは日曜の夜で、それを読みはじめたのは次の週の水曜、そしてその半ば近くの頁に彼女の筆跡による書き込みがあることに気づいたのは、結局、数か月もたった後の、またしても日曜の深夜だった。その曜日になにか意味が──若い恋人との記憶を起点にした理由が──あるのか、それともたんに一週間のはじまりを忌避するあまり、なんでも構わない、映画館の半券や紛れ込んでいた写真、消し忘れの留守番電話録音、未使用の古いコンドーム、否応なしに過去へと向かうそうした細々としたオブジェを無意識に発掘してしまうとでもいうのか。というのも、書かれた文字は当然のことながらかつての彼女を思い起こさせたが、その途端、この事態を予期し、同時に激しく期待していたことに気づいたのである。すでにベッドの中にいて、かろうじて部屋を照らしているのは枕元のスタンドの薄ぼけた白熱球の光だけ。足元から先はすっぽりと重い闇に沈んでいた。胸の上で開かれた頁では、女主人公がやはり暗い車庫で(夫の眼を盗み)自動車のイグニションキーに指をかけたまま凝固している。彼女の行先はもちろん背の高いやくざな愛人の待つ高速道路のPAで、そこは深夜のその時間に車を飛ばせば彼女の家から一時間もかからない。つっかえながら爆発するカーラジオ。リアヴューミラーに映る怯えた両眼。シートの振動から、彼女は愛人の角ばった背中、堅い腿の筋肉を連想する。もはや愛人との間で長い言葉がかわされることはなく、会話はつねに暗示にみちていたと語り手は言う。もしかすると小口に書き込まれた彼女の言葉も、たとえばそのような隠喩なのか、故意に到着を遅らされた言表なのか。しばらく闇のしじまを見すかすが、やがて煙草に火を点け続きを読む。頭の片隅で彼女とかわした最後の会話を思いだそうとするが、愛人のもとへ急ぐ女主人公と同様、官能的な記憶がにぶく甦えるのみだ。静まった海に見張られた砂浜、屋上の夏、暗い森。夜の逢瀬を余儀なくされるうち、彼と彼女は、互いに、途方もなく不当な扱いを受けたかのように感じはじめ、貝殻骨の窪みにそって降りていく指が、枕の下に隠されたナイフのきらめきを求めてシーツをまさぐる。次に逢うための約束は、彼女が夫とかわしたのと同じ、まさに悪魔との契約だった。こんな夜更けはいつもそうであるように、ナイトテーブルの電話が今にも鳴りはじめるのではないかという予感に、しばらくは意識が逸れ、視線は行間をさまようが、いつ始まったのかわからない沈黙は揺るぎもせず、ふたたび本に没入する。車庫のシャッターがあがり、外の冷気が押し寄せる。彼女は音がもれぬようできるだけゆっくりと車をスタートさせる。夫は二階、六メーター上の暗がりでじっと眼をつむってているのだから心配はいらない。 その先は物語は流暢に進む──進むように思える。あるいはたんに読書への没入の度合が急速に高まったのか。狂おしい一夜が明け、彼女と背の高いやくざな愛人は、デニイズでモーニングサーヴィスのサラダをつついている。色の悪いレタスの葉をフォークの先でめくりあげる。またしても暗示的な会話が続き、指は忙しく頁を繰る。そしてとうとう行間に彼女の顔が閃き、もはや本から眼をあげずにはいられなくなる。同時に、押さえていた指がはずれ、頁は猛烈な勢いで、際限なくめくられていく──ノンブルの始まりへ、そしてまた終わりへと。そこに書かれているのは絶句した彼女の表情、それまで見たことのなかった奇妙な表情だ。彼女の声。呪文のように同じ低い調子で読まれ、唇を離れるや宙に滲むように消えていく声。それらを意識の前に引き寄せようと、けんめいに眼前の闇に眼を凝らし、耳を澄ます。もう顔をあわせることもないと思っていた彼女との再会は数年後の夏のこと、それからはもう逢うたびごと、どこをめくっても白紙が反射するノートブックのような時間がはてしなく続いていた。電話、くぐもった声で織りなされていく陰謀のタペストリー。雨中の密会。手渡される走り書きの紙片。でっちあげの名刺。彼女と男は、たとえば彼女の夫を水難事故に見せかけて扼殺するというあまりにも不確かな妄想にとりつかれ、それを実行するか、さもなければ心中か失踪のような別の妄想に身をゆだねるかしかないバインドに縛られていた。後部トランクから転がり出る、エアパッキンに包まれた水死体(歯を食いしばった躯は氷の彫像のように硬く、折り曲げるのに難渋する)。一方、背の高いやくざな愛人は、ふとしたことから、逆に彼女の夫のほうこそ自分たちの殺害計画を練り上げていることを知る。それは寝耳に水のできごとである。そして夢魔の物語の折り返し点となる。おきまりの打算がはたらき、動きを見さだめがたいほど緩慢な、中断によってのみ知覚される、甘い夢のようなパンニング――それは彼女と夫の閉ざされた家へ、その重く暗いリヴィングへ、クリスタルテーブルの上できらめく灰皿へ、その中で燃えていく彼女のフィルムプリントへと際限なく視界をずらし、彼女の夫と愛人とが見かわす視線のうちへと繰り込まれていく。薬を服まされて階上の部屋に横臥する彼女の危地。醒めることなき夢のさなか、彼女は自分がかつて夥しい手紙を書いたことを想起する。あの数百もの便箋は今いったいどこにあるのか、薄明の空から延々ともつれて落ちる黄金のリボンのような彼女の筆跡、書き手と読み手の筋肉の襞にしっかりと絡みつき、無数の細い管を差し込んで着実に体液を吸いあげる。それまでの日常を棄て地方の都市に蟄居していた彼の部屋を(嵐のように)襲った彼女の手紙の渦、その一通一通が彼を眼に見えぬ甘美な網の内部へと導こうとした。死の天使としての彼女。冷たい熱狂は、一度、彼をとらえる。彼は幸福に希望を抱き、数々の返信を書き送りすらする。ありきたりの絵葉書に添えられ、夜の物語へ傾斜する短い言葉。しまいには地方にいるために手紙を出すのか、手紙を出すために地方にやってきたのか、見失いすらする。地図に秘められた障害。しかしながら、結局のところ、それでも彼女は彼を幸福に連れ戻すことはできない。その夏、彼と彼女は再会するが、それはすでに幸福なものとはほど遠い。彼女は彼の新しい恋人に嫉妬し、誤解は誤解を生む。彼女は完膚なきままに敗北する。その敗因は彼女の配偶者の存在にはなく、もちろん彼の新しい恋人にあるわけでもない。彼はもっぱら黙りこくる機械、そして郵便配達夫を介さない彼女の手紙、それは無慈悲に遅延を禁じられ、迸るほかない言葉の洪水だ。(未完)