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「崇高と労働」という、この崇高なるテーマを掲げた企画展は、皮肉にもそのテーマ設定の崇高さゆえに、あらかじめ破綻してしまったようだ。いわば、作品それ自体よりも美術館の企画者の観念先行による美術展における失敗例の典型と見ることもできるだろう。観念=言葉主導の、その肝心な言葉の難破が、そのまま企画展自体の難破に繋がっているのである。

 本展のチラシに書かれた文章によると、ある種の美術作品は「創作における行為への加担性から一種の『労働』を感じさせる」という。しかし、「18世紀中葉、アルティザン(=手職人)からアルティスト(=芸術家)に分かれて以来、美術はアルティザン的意味合いを何処かへ置き忘れてしま」ったと嘆く。そして本展では、そのような「美術が本来内在している崇高な『労働』を考え」「『美術』の誕生の『場』に出会えることができたら」と、望んでいるのだという。

 上記の引用文が鮮やかに露呈しているものは、本展が企画立案の初発において、労働の中の崇高性、そして美術の中の労働性を信じて疑わない態度である。つまり企画者は、近代の政治権力と経済システムが共犯的に綿々と築き上げてきた労働の神聖化というイデオロギーの中に、あまりにも無自覚的に埋没しているということだ。

 引用文ではさらに、崇高なる労働の手本として中世ギルド的な職人に憧憬の目を向ける。しかしたとえ中世的職人であっても、「実際には職人は同僚の評価的視線や注文主の要求に晒されているし、そうした視線や要求に沿って作品を作る。職人たちは、親方、同僚、注文主から賞賛を獲得し、名誉を得るために仕事をする」(今村仁司『近代の労働観』)という、「他者の視線」に緊縛されたおよそ崇高さとは程遠い「隷属性」を活動の機軸としていることを忘れてはならないだろう。そのことに目を逸らした「職人の美化」は、確かに今日マス・メディアを中心に奇妙なブームをさえ形成しつつあるが、それはあくまでメディアが発信する「美しき職人」という商品化された情報に過ぎないのである。多少とも実際の職人の現場に接したことのある者なら認めるところだと思うが、職人の恒常的な職の現場は(概ね)、テレビの職人紹介番組が演出するような禁欲的で緊密な空気が支配するものではない。そこには、もっとスカスカとした日常的な時間が流れている。だからこそ、職人は何十年もの間、同じ工程の反復を堪えうるのかと、これは実際に私が職人たちを取材して思ったことだ。なんといっても、職種の別 なく大半の職人の仕事場には、スカスカした日常的時間を埋め合わせるために、ラジオは必携のアイテムなのである。

 労働の中に崇高さがあると信じることで耐え難い日常の労苦を幾ばくかでも和らげたい、と願うのは、生存のための必然的労働に大半の時間を現実に費やしている我々生活者の自然な感情だろう。だが、その感情に拘泥することは、この企画展同様に、いのちの破綻へといずれ我々を導くかもしれない。なぜならそれは、結局のところ近代が構築した「労働こそ人間の本質である」という虚構の神話にすがることに他ならないからだ。

 もしも労働こそが人間の本質であり、そこにこそ人間の生の価値があるのだとすれば、果 たして「生存のための必然である生産ないしは再生産」としての「労働」という行為から、その「非生産性」という本質ゆえに本来もっとも遠いところに位 置する「表現」という人間の行為は、一体どう価値づけたらいいのだろうか。本展は、労働という生産的行為の中に虚構の崇高性を幻視し、非生産的なるがゆえに崇高性を孕み得るかもしれない「美術」という表現行為の中にその労働なるものを無理矢理ねじ込もうと企図したがために、破綻を生じたのである。チラシで高らかに「崇高なる労働」の可能性を謳いながら、カタログの解説(板橋区立美術館学芸員・尾崎眞人「崇高と労働――或いは、常にその先にあるモノ――」)の中では、いつの間にか見事にそのテーマがコミュニケーション論にすり替えられてしまっていることが、その破綻の事実をいみじくも物語っている。

 しかし、ならばなぜ、「美術」という表現行為が、非生産的なるがゆえに崇高性を孕み得ると言うのか。以下に具体的な作品に触れながら、その根拠を多少なりとも示すことができれば幸いだ。

 企画者の意図は破綻したとしても、この会場に展示された作品それ自体は、企画の意図とは無関係にそれぞれの作家の各様の行為の結晶として存在している。そして、それらの中でとくに目を惹く作品たちは、私には、労働という日常的行為からはおよそ逆のベクトルを蔵していると感じられるものばかりだった。

 



 たとえば「弛緩」をはじめとする多和圭三の鉄塊の表面 をひたすら鉄槌で叩きのめしただけの作品群。それらは「朝8時から夜19時にかけての叩くという単純作業が4ヵ月にわたっ」(カタログ解説より)て生まれたという行為の反復性だけを客観視すれば、単純労働との疑似性を指摘できるとしても、その行為に赴く主体が孕む無償の自律性と、反復行為の極度な純化において、本質的に日常的な労働とは対極に位 置するものだ。単なる鉄塊に過ぎないこの作品が作品たり得るのは、そのような無償の反復的所作を作家の自律的な意志によって持続した行為の痕跡が、キラキラと深い輝きを湛えてその鉄塊の表面 に籠められていることによる。肉袋たる人間の身体が鉄塊という硬質な物体に壮絶な時間と肉体的エネルギーをかけて挑み続けた、その純粋行為の痕跡が美しく輝いてそこにあることへの感銘は、労働というよりは、むしろ無償の「祈り」の行為に対する共鳴といった方が相応しいものだ。

 これに近いイメージは、菊畑茂久馬の「月光」その他の油彩 画布の上に盛り上がるマティエールや、佐藤時啓の写真「光一呼吸」シリーズの中のペンライト光の縦横無尽な軌跡、あるいは内海信彦の絵画「INNERSCAPE」シリーズ他の幾重にも重なる深い色層の奥行きなどからも感じ取ることができた。なかでも内海信彦については、会場で放映されていた公開制作のヴィデオを見る限り、そのアクション・ペインティングの懐かしきパフォーマンスを見るような制作過程のシーンからは、およそ労働という「ケ」の日常からは程遠い、まさしく過激な「ハレ」の祝祭空間を目の当たりにするような印象を受けた。このような映像を見せつけながら、なおも「労働」をテーマとした企画を主張する神経に、私は不可思議さを一層深めざるを得なかった。




 一方こうした「祈り」や「祝祭」とはまた違った意味での労働との対極性を感じる作品群もあった。それはたとえば加藤義郎の〈金槌で叩きつぶした鍋、フライパン、やかん〉たちであり、青野文昭の看板や発砲スチロールなどの拾得物による「無縁―有縁」シリーズの物体たちだ。ちなみに青野の作品については、カタログ解説では原型の修復ということになっているが、これらの作品はどう見ても「修復」ではないだろう。そうではなく、かつて何らかの形で意味性を孕み社会参加していた看板や発砲スチロールたち、そして今や不要のモノとして打ち捨てられ錆び付き薄汚れ剥離し崩壊したそれらを、あらたに「再生」する試みである。しかしそれは、元の意味的世界への帰還を目指すものではなく、むしろ打ち捨てられたモノどもの意味世界への復讐として、あくまで「無意味性」の呪いを孕んだ表現作品として世界へ回帰してゆくのである。同様に加藤の作品も、鍋やフライパンややかんという明確な機能性とともに日常に立体的に存在していた「意味ある物体」を、完膚無きまでに叩きつぶすことによって機能的空間性を消失した無意味な鉄板へと、すなわち意味(有用)から無意味(無用)の方へと質的変換を試みるのである。両者の行為は、いずれも平たく言えば 「遊び」 である。ともに日常性へのいささかの悪意を込めた「遊び」、あるいは時に加藤の場合は「無垢なる悪ふざけ」ととれなくもない。しかしその「遊戯性」こそが、労働に対するアンチ・テーゼなのであり、これら2つの作品も、それゆえに労働と対極のベクトルを持っているのである。

 以上に述べてきた「祈り」「祝祭」「遊び」は、いずれも少なくとも近代以降の生産主義的な労働観からすれば、勤勉を旨とする日常から逸脱した世界に属するものである。なぜなら、それ自体は効率的な労働力に直接結びつくものではないからだ。したがって、労働という「有為」に対する「無為」の活動とも言える。だが、それなくしては人間が人間らしく生きることが困難であることも、今更言うまでもないことだろう。そして、人間らしさ(=魂)の復権を賭けた行為だからこそ、そこに崇高性を湛え得る可能性もあるのではないか、と私は言うのである。

 我々にとって無為なる営みが如何に止みがたい、ないしは逃れがたい希求であり、また、それが「美術」という表現行為の中に如何に受胎されているものであるか、そのことをこそ、本展は私たちに知らしめてくれているようだ。

 最後にマルクスの娘婿であった社会主義思想家、ポール・ラファルゲの以下の言葉を添えて、本稿を閉じよう。

 「詩人たちは、無為を、この神々の贈り物をうたった――〈おお、メリベよ、神々はわれわれにこののびやかさ(otia,oisivite)を贈ってくれた〉。」(前掲書『近代の労働観』より)

「シリーズ Art in Tokyo No.12 崇高と労働」展

会場:板橋区立美術館
会期:2000年8月26日〜10月29日

 

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