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 「死の舞踏」()という、この西欧人の精神に根深く浸透したイメージを正確に捉えるには、キリスト教的世界観の原基と、少なくとも中世以降現代に至るまでのその変遷の過程を理解することから始めなければならないことは言うまでもないだろう。とはいえそれは、この一編の雑稿で賄いきれるほど単純な問題ではない。しかしそこを敢えてまげて、本稿の展開のために極く単純な概観の把握だけを試みるならば、「死の舞踏」とは、ペストの蔓延による大量 の人間の死という中世末期のヨーロッパ全土が直面した大惨事をその誕生の契機とし、その後の宗教改革、市民革命、数次にわたる産業革命、それに伴う社会体制の変化、そして戦争の世紀たる20世紀の到来、といった西欧の近・現代化の歴史的過程と常に寄り添いながらイメージの変容を遂げてきたものであることが看取できる。

 そのような大掴みな理解をもって、これら300点にもおよぶ中世末期(15世紀半ば)から現在に至る膨大な「死との出会い」を顕わした図像群に立ち会ってみると、必ずしもそれらが、西欧独自の宗教観に閉ざされたものではないこと、おおよそキリスト教に疎い東の涯ての民族である我々日本人の精神史とも必ずしも無縁ではないことに気づくのである。

 というのも、本展の冒頭で展示されている《バーゼル市の壁画による死の舞踏ゥt(ただし展示品は後年出版された模写 版画であるが)などの中世末に描かれた初期の「死の舞踏」図では、墓地や修道院の回廊の壁面 を囲むように飾られ、納骨堂から始まり納骨堂で終わるその図像構成の循環性から「円環的な死生観」が指摘されている。教皇から農民まで、少女から老人まで、身分の貴賤、老若男女のたがいを問わずおしなべてすべての人間に訪れる死を想うことを知らしめ、生の奢りを戒め、世の無常を諭し、死後の救済を説くという、この中世までの古典的なキリスト教の死生観を顕わした図像は、しかし思えば、同じ中世(といっても正確には幾分時代が前後するが)において、度重なる飢饉やそれに伴う疫病をその誕生の背景とみなす我が国の「九相図」や「餓鬼草紙」の中に見られる仏教的な生と死の円環性や無常観と、いかにも類似しているように思われるのだが、どうだろうか。

 



 また、やがてそれら「死の舞踏」の初期壁画群は、衛生的観点あるいは新たな都市計画に基づく墓地そのものの郊外への移転、はたまた美観を損なうという美意識の変容による修道院の回廊などからの撤去といった、都市の近代化の進展に並行して徹底的な破壊の対象となってゆく。そのような、それまで身近な隣人としてあった「死」を禁忌の対象として日常的社会から隠蔽してゆく経緯は、宗教改革後のプロテスタンティズムの台頭というキリスト教的世界観の問題に止まらず、ヨーロッパ先進の近代主義という、遠からず我が国も含めた全世界を覆うこととなる共通 の精神×社会システムの変容として認識できる事柄だろう。

 さらに19世紀も後半に至ると、死の像は一段と個別 化してゆく一方で、現世的な社会批判の色濃い風刺画としてのカリカチュアライズも進行してゆく。かつての聖なる死神たちとは異なる、戯画化された骸骨たち。それらの個人主義的な感覚(あるいは市井感覚)とポップな感性(あるいは遊戯性)からは、どこか近世末期の日本の浮世絵に近しいものも感じられなくはないのである。同時に、このように個的世界への死の侵入と、その侵入する死神たちの戯画化の中に、成熟しつつある近代社会における人類の「死」に対する若干の奢り、幾分の優勢感をも嗅ぎつけられないことはない。

 ところが今世紀に入り、第一次世界大戦をその端緒とする近代的「大量 死」の時代を迎えると、「死の舞踏」を率いる死神たちはふたたび新たな相を纏って活気づいて来るように思われるのだ。中世末期にペストという見えざる細菌の恐怖とともに西欧で生まれた「死の舞踏」の使者たちは、今日では、核兵器、ハイテク・ミサイルや化学兵器などの無差別 大量殺戮装置、そして原子力、ダイオキシン、オゾン層の破壊等々々の環境破壊など、大量 死と結び付くあらゆる有形無形の脅威によってさらされている我々全人類のうえで、嘲笑しながら大団円を誘っているように思えてならないのである。(メルヒオール・グロセク作《死の姿、第1次大戦の死の舞踏》、マリア・ヘッケルト=フェヒナー作《死の舞踏、核戦争》)











 ところで、以上のような「死の舞踏」の変遷をめぐる所感とは別 に、本展で興味深く思ったことは、「死と少女」という、「死の舞踏」の初期から現代に至るまで連綿として続く普遍的図像の不思議な魅力である。確かに初期においては、概ねそれは厳格なキリスト教の教義に基づく「性の快楽」への戒めとして制作されたものとはいえ、しかし戒めとして描かれたその像の中にさえ、秘められたエロティシズムは覆い隠しようもなく感得できはしないだろうか(ハンス・ゼーベルト・ベーハム作《死と立てる裸婦》)。「死者と若き肉感的な裸婦像との抱擁」の画面 に醸されるある種の濃密な空気からは、初期の「死の舞踏」の中にあっても、なにか異質なものを感じないではいられないのだ。時代を経るとともに「戒め」の要素は後背へ退き、「エロティシズム」の要素がより一層濃厚となり(エドヴァルト・ムンク《少女と死》)、現代では少女の性が死を凌駕するとさえ思えるエロスの豊饒を見て取ることができるのである(ホルスト・ヤンセン《愛の情景(死と少女)》)。が、そうした質的な変容はあるにせよ、「死と少女」という古くから続くテーマが「死の舞踏」図の中でもなにか特殊な力を帯びるのは、その「関係」の図像が、「生の戒め」を説く宗教的倫理観から逸脱した、「エロス」と「タナトス」との絡み合う人間の深層に棹さすものがあるからなのではないだろうか。

 なお、本展はデュッセルドルフ大学版画素描コレクションの中から選り抜かれた作品に国立西洋美術館所蔵品を補填して編成されたものである。したがって、むろん300点にもおよぶ版画と素描の中には、デューラー、ホルバイン、JJ.グランヴィル、マックス・クリンガー、クビーン、エミール・ノルデ、ムンク、ホルスト・ヤンセン、ココシュカ、ダリ等々、一般 にも比較的よく知られた作家たちの作品も多く含まれている。しかしそれ以上に、どうしてもドイツ国内の作家が主に収蔵されていることもあって、私などにはまったく未知の作家たちも多数含まれていた。その意味で本展には、ドイツとその周辺の中世末から今日に至る貴重な版画史を垣間見ることができるという側面 もあるのだが、その中で、私がとくに初めて知りかつ強く惹かれた作家の作品を1点だけ紹介しておこう。それはケーツ・コルヴィッツ(1867〜1945年)の《死と女性》である(このほかにも本展では彼女の晩年の連作《死》の4点と《義勇兵》という作品が展示されている)。死と直面 する瞬間の脅威を、簡潔なフォルムの中でこれほどまでに深く、力強く、絶望的に、しかも官能的に捉えた作品を、他に見ることはできなかった。「全生涯を通 じて、死との対話を行ってきた」という彼女自身の言葉が決して偽りではないことを、この作品は、我々の前に歴然と証明してみせているのである。


 「死の舞踏」という言葉には、二つの意味がある。中世末期のペストの大流行時に、人々が死の恐怖から逃れるかの如く実際に半狂乱になって踊り狂うという事態が発生した。また、しばらく後になると、そうした疫病の災いを祓うため骸骨に扮した祈祷師らが街中を歌い踊り練り歩く儀式が行われたという。ひとつには、そうした社会現象を指して「死の舞踏」と呼ぶ場合がある。一方、その空前の疫病の蔓延に伴って生まれた各地の墓地を囲む回廊、あるいは修道院の回廊や聖堂の祭壇の壁面 などに描かれた、骸骨の姿をした「死」があらゆる階層の人々に「生のはかなさ(ヴァニタス)」を説きつつ死へと誘う説教画を起源とするところの美術表現上の図像のことを指して「死の舞踏」とも言う。むろんこの二つは相互に関連しているわけだが、あくまで本稿で言う「死の舞踏」とは後者の図像を指すものであることは、あらかじめ断っておく必要があるだろう。

 

 

「死の舞踏――中世末期から現代まで
 デュッセルドルフ大学版画素描コレクションによる」展


会場:国立西洋美術館
会期:2000年10月11日〜12月3日

 

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