
《曼陀羅》 1958年 墨・顔料、絹(六曲一隻屏風)
172×363cm 草月美術館蔵
|
蒼風の彩
色書をまとまった形で見る機会を得た。これまで関連書編集の私事に絡んで図版では多く目にしてきたが、これだけの数(といっても限られた草月美術館所蔵品の展示なので、わずか14点にすぎないが)の実作品を目の前にするのは初めてのことだった。そして、それは少なからぬ
感慨を得る体験となった。というのも、私はそこで、図版というものが如何に当てにならないものかを、今更ながらもあらためて実感することになったからだ。
なによりもそれは、金・銀の下地の輝きにあった。
金地の場合は、実物の発光は4色のオフセットではとても得られないとしても、まだしもそれが金地であることは印刷物でも把握できることが多い。それによって、想像力を働かせることもある程度は可能だ。しかし銀地の場合は、銀の特色を使った豪華本でもない限り、図版による再現性はほぼ
100%諦めた方が良い。印刷物では、それは見た目にはグレーか限りなく白に近いブルーでしかない。この通
常の4色カラー印刷の「悲しい宿命」、これまでにもしばしばこの展評で触れてきたそのことを思い知らされる結果
となったのだ。
すでに図版で見覚えのある何点もの作品に、実見して初めて私は「あっ、これも銀の下地だったのか」と気付かされた。それらのほとんどを、私はずっと白地に描かれたものと思い込んでいたのである。で、「この下地の白を見るところ、この印刷は青みが強いな」だとか「この製版は暗い」などと、勘違いしていたのである。その思い込みと実見との落差は、モノが銀であるだけに大きい。原色の彩
色が交錯する画面のいたるところからわずかに覗く銀の欠片は、まるで私を恨むかのように、ギラギラと復讐の光を反射していたのであった。
けれども、金地の上に墨一色で書かれた、派手は派手だが蒼風にしては比較的穏当な?書(これも相当な数を遺している)は別
として、本展に並んだような原色のアクリル(時に顔料)によって彩
色された書の場合は、一見した視覚的強度は、圧倒的に下地の金・銀よりもその彩
色の色面に比重が置かれている。私はこれから、これらの書の画面
を覆う色彩の存在の変容にこそ注目して、ここで何事かを語ろうというのである。
蒼風のこのまったく独特な「彩
色書」(と私はさきほどからしきりに書いているが、そんな言葉があるのかどうか、私は知らない)は、すでに述べた金・銀、あるいは墨の下地の上に書かれた文字の周囲を、さらにアクリルや顔料などの絵の具を使って荒々しい筆勢で縁取り、余白を塗りつぶすというものだが、その手法は基本的に初期から晩年まで一貫している。だが私には、初期の作品においては、その書かれた文字が、それを取り囲む色面
よりも画面全体の中で優位に立っているように見えるのだ。

《日輪》 1967年 墨・アクリル、紙
91×182cm 草月美術館蔵
|
とくにここで例示した《曼陀羅》の場合は、珍しく墨の地塗りの上に金泥で書かれそれを銀泥が取り囲む、という配色の力関係もあって、いっそう文字が強調されて見えるかもしれないが、他の金・銀の下地に墨で文字が書かれた作品でも、初期のものは一体に周囲の色面
よりも文字の存在の方が勝っているという印象が強い。つまり、書かれた文字が文字として表面
に立ち上がっているのである。
ところが面
白いことに、時代が下るにしたがって、文字と周囲との関係は逆転していくように見えるのだ。初期の文字の骨格を外部から支えていた色面
が、その色数を増すとともに次第次第に文字を周辺から浸食し始めるのである。そしてやがては、ほとんど文字が文字の体をなさぬ
レベルにまでフォルムへの侵犯が進行するに至る。

《幻》 1977年 墨・アクリル、紙
91×175cm 草月美術館蔵
|
いわば色彩
の氾濫。あるいは、外部から文字を文字たらしめていた色彩たちの謀反か? なにかまるで、蒼風の中の絵画的感性が書的感性を自らの手で凌辱していく光景を目にしているかのようだ。
ところが、である。さらに面
白いことには、なお時代を経て晩年に近づくにつれて、色彩の氾濫の霧は晴れ、絵画の奥に幽閉されていた文字が再び表面
へと呼び戻されてゆくのである。
例示した《幻》は、まさに最晩年に近い作品だが、ここに至って、文字のフォルムと周辺の色彩
の絵画的要素は微妙なバランスを保って、構図的にもっとも安定したまとまりを示しているように見える。
果たしてこのような、文字と色彩との関係の変容が蒼風の内面
と如何なる関係にあったのかは知る由もないが、いずれにしても長年の彩
色書の創造行為において、文字と色彩、書と絵画との拮抗関係が蒼風の中で絶えず息づき続けていたことは確かだろう。
卑見するところ、この蒼風が独演した壮絶な文字と色彩のスペクタクルなバトルの原点には、やはり「花」があったように思われる。すなわち、文字という「意味」、そして色彩
という「意味を超えた感性」とのいささか華々しすぎるとも言える闘争劇を可能にしたのは、蒼風が「書」そのものが本来的に意味と無意味の拮抗の上に成立するものであることを、いけばなを通
して本質的に掌握していたからではないだろうか。なぜなら、「花」もまた、「言葉」と同様、それ自体に「意味」を内蔵しているからである。そして、いけばなとは、自然が花に与えた「意味」(それを「機能」と言ってもいい)を無慈悲に剥奪し、しかも殺さない、という微妙な拮抗関係の上に成り立つものだからだ。
ところで、これらの蒼風の彩
色書の展示を見て、他に思ったことを二、三書き留めておく。
一つは、アクリルと墨の材質の差についてである。果
たしてそれが単純な経年変化によるものなのかあるいは保管状態が大きく左右しているのか定かではないが、とにかくアクリルの彩
色面がひどく濁っているのが気になった。まるでこれらの色たちはドライフラワーみたいじゃないか。おそらくは、制作した当初は遥かに鮮やかな発色をしていたに違いない。だとすればもっととんでもなくド派手な作品であったわけだ。一方、それに対して墨の方は数十年の歳月などまるでものともしない色感を保っている。この墨というものの「強み」。とくに、先に例示した《幻》などは、銀の下地ゆえに浸透しないまま固まった墨の「溜まり」が、まるで黒曜石の断層のような照りを所々に立体的に形成し、奥深い鈍色の光沢をいまだなお放ち続けており、それが得も言えぬ
魅力となっている(ところがまたしても、それは正面撮りの平面
図版では決して再現できないのだが)。
さらに、蒼風の書のフォルムについての特徴を一つ。まったく蒼風の書体は個性的であり、一般
の専門書家には断じて認め難かろう作風となっているわけだが、その最大の特徴は、意外なほどの筆勢の希薄さにあるように思われてならない。蒼風といえばアンフォルメルからの直接的な影響をもろに受け、その即興的な筆致はいかにもダイナミックな筆勢を生んでいるかのように見えるが、実のところはそうでもない。むしろ筆の勢いは、重く鈍い。オノマトペ的に表現すれば、ベッタンズルズルという感じ。それは、まるで箒で庭でも掃くような格好で大画面
に巨大な筆を両腕で抱えて書いてゆくそのスタイルからくる必然とも言えるのかも知れないが、ともかく起点から終点までほとんど同じ太さで揺らぎながら走行するゴシック体のような文字。

パリ、ガリエラ美術館での個展デモンストレーション
|
この字を見ていると、結局蒼風は、本来書の中核をなす要素のひとつであるはずの文字の筆勢それ自体には、実はあまり関心がなかったのではないかと思われてならない。それはなぜだろうか、と眺めていて、ふと気が付いた。この蒼風の文字の線は、彼の枯れ木いけばなの巨木の幹や枝そのものではないか。幹や枝は折られ、切られ、曲げられ、変形を施される。しかし、その幹や枝の表面
をそぎ落として、枝ぶり(幹ぶり?)の太さに強弱を付けるということは(完全なオブジェとして作られたものは別
として)、いけばなとしてはあまり見たことがない。蒼風にとっては、書の線の太さ、それは樹木の幹や枝があらかじめ自然によって勝手に授けられたものであるように、墨と筆によって勝手に生まれるものにすぎない、ということだろうか……。
ところで本展は、以上のような蒼風の彩
色書の他に、「視線を超えて」という主題のもと、国内外のさまざまな「文字」や「音」が絵画とクロスする館蔵作品が展示されている。ミロ、クレー、ヤン・フォス、瀧口修造、ジャスパー・ジョーンズ、荒川修作、勅使河原宏らの絵や書など、そして武満徹、杉浦康平、一柳慧らの図形楽譜とそれに基づく演奏の視聴、さらに李朝民画の文字絵まで。それらは皆、それぞれに興味深かったが、しかし本展が蒼風生誕100年の記念事業の一環として開かれていることを思えば、企画者側とすればできれば会場のすべてを蒼風の彩
色書で飾りたかったのではないだろうか。けれども、ここに展示された14点がその種の作品の草月コレクションのほぼすべてだということで致し方ないとはいえ、蒼風以外の作品がたとえ上記のような主題を持ったとしてもなにかまとまりを欠く構成で空間に埋められているような印象を受けた。他の作家たちの作品については、それぞれ個々に、また別
の機会に出会い、あらためて語りたい。語るに足るものは多くあった。とくに、図形楽譜。これについて考えると、また切りがなさそうである。
……そういえば、かつて中川幸夫の項で触れたあの「匂い立つ」女たちの非日常空間、年に一度の草月の大いけばな展が日本橋と新宿の高島屋で同時開催を始めた。今年もまた、おそるおそる足を運んでみようかな……。
「視線を超えて ―描かれた文字と音楽―」展
2000年11月6日〜12月22日/草月美術館
|
このページの先頭へ

|