19.

 風聞によると、すでに「若冲ブーム」と言ってもいいような現象が巷間を席巻しているらしい。思えば、私が若冲を見に行く「ただそのためだけに」わざわざ京都へ赴いたことそれ自体が、そのブームの過熱ぶりを証しているようなものだろう。

 実際会場は、老若男女実に幅広い層の鑑賞者で溢れており、およそこの手の近世の一個人の画家を対象とした日本画(北斎展のような人気度の高い浮世絵ならともかく)の展覧会では普通 考えられないような活況を呈していた。その賑わいを見ただけでも、この展覧会が洋の東西、ジャンルの別 を超えて、今年国内で開催されたあらゆる企画展の中でも屈指の成功をおさめたものとして回顧されるであろうことは、容易に想像がつく。四つの展覧会場で同時開催された、かの四大文明の展覧を、京の町絵師、伊藤若冲一人が凌駕してしまった感すらある。しかも、注目すべきは、日頃なにかと東京中心で考えられる美術展にあって、本展が、全国巡回をするわけでもなく、京都という一都市一カ所で開催されていることである。ということは、首都圏内においての事前の宣伝活動にもおのずと限界がある。にもかかわらず、すでに「全国区」的な話題をさらっているその事実は、展観後の鑑賞者の「口コミ」がいかに影響力を及ぼしているか、ということを如実に示しているといって差し支えないだろう。つまり宣伝力ではなく、展覧会それ自体の内実の力によって本展が成功をおさめているということ・・・このことは、刻々と近づきつつある国立ミュージアムの特殊法人化の流れの中にあって(まさに本展の会場である京博もその当事者として渦中にあるわけだが)、心に留め措くべき「(良い意味での)事件」であった、というべきだろう。おそらくは企画者サイドも、まさかこれほどの反響が生まれるとは、予想だにしていなかったのではないだろうか。ある意味で今、美術の鑑賞欲を持つ一般 の人々の中には、西洋画だとか日本画だとか、あるいは絵画だとか立体だとか、すでに専門家の先を越してそういう既定のジャンルに拘る意識が希薄であり解放されていることを、本展が図らずも証明しているのかも知れない。

 


《南天雄鶏図》(動植綵絵30幅のうち)
 1765年 絹本著色 142.2×79.4cm

 さて、そのような本展の内実の力とは、言うまでもなく、我々鑑賞者の前に現前する若冲の絵そのものの力というわけだが、その印象を一言で表せば「驚き」ではないだろうか。そしてその驚きは、ひとえに本展の作品傾向の多様さによるところが大であるように思う。むろん一般 に入手可能な画集も少なからず上梓されている若冲であるから、その作品の多様さについては、すでに図版によって承知していた鑑賞者も少なくないだろう。しかし、なんといっても代表作「動植綵絵」の極彩 色の絢爛さと鶏の絵に強烈な若冲観の印象づけられていた感のあるこの一絵師の、水墨、版画、屏風・襖絵の大作から掛幅の小品に及ぶ多様な作品をこのように一時に目の当たりのすることで初めて実感するスケールの大きさには、やはり圧倒されるものがあるだろう。そしてしかも、それら多様な表現形態のひとつひとつに顕れた技法上の独創性に対する驚き。――観る者誰しもの目を疑わせるモザイク画法や点描画法、あるいは禁じ手の筋目描きや、拓版画や着色版画などの新奇さへの驚き、と同時にただ驚くばかりではなく、そのどれもがそれぞれに顕わしてる美しさ。そのうえ、その美しさに不思議に旧古の感が薄く、現代的な共感を喚起するところが、また凄い。さらには、そうした大胆にして繊細な技法の展開は、若冲その人の徹底的な自由な精神から生まれたものであるように思われて、そのことがまた心地よいのである。

 おそらくこれほどまでに多くの観者に「眼福」という言葉を想起させる絵の展観も、近年希にみるものではないだろうか。この展観を機に、日本画に対する思いを新たにした来場者も少なくないに違いない。

 しかし、この巷間喧しい若冲ブームにあって、すでに各種のメディアから様々な若冲論が発信されている最中、今更ここで、私が本展によって大半の鑑賞者を驚嘆せしめた上記の主だった技法上の独創性について、繰り返し述べてみたところであまり面 白くないだろう。なぜならそれ自体は、結局のところ、あの時代にあってたった独りの絵師によってなされた驚嘆の画業に対する賛辞に終わるほかないからだ。

 むしろ私はここで、できるだけ他者があまり触れていないようなことを、いわばマイナーな若冲論を幾ばくか試みたいと思うのである(とはいえそれが、たまたますでに誰かがメジャーなメディアで言及していたとしても、それは私の知る由ではない。別 にこの拙稿は、学術論文じゃないんだから)。

 



《白鶴図》 絹本著色
124.7×70.0cm

 私が展観前後に雑誌や図録、画集中の論稿に目を通 して、あまり触れられていないことを不思議さに感じたことが、大きくは二つほどある。

 そのひとつは、展観前に目にした雑誌の特集号の中ですでに感じていたことなのだが、それは初め私の頭の中で「円」という言葉としてイメージされたものである。その引き金となった作品が、明代中国の画人・文正の《鳴鶴図》の模写 といわれる《白鶴図》と、同じ原画の狩野探幽の模写《飛鶴図》、それら3点が並べられた図版を目にした時の、若冲の《白鶴図》に描かれた異様な波濤の描写 、しかもその中の「円」であった。

 この波濤の中の「円」に奇妙に関心を寄せてみると、その他の若冲の絵のいたるところに存在する「円」がしきりに目についてならない。たとえばそれは、水墨・著色の別 を問わず様々な花鳥画の中に描かれた草木の朽葉や樹木の瘤の中に存在し、また虎や鶏の眼や姿態そのものとして存在し、また時に売茶翁の風になびく裳裾の中に存在し、あるいは月として存在する。この円の発見の直後に、号名「若冲」の由来となった『老子』の中の一節「大盈(タイエイ)ハ沖(ムナ)シキガ若(ゴト)キモ其ノ用ハ窮(キワマ)ラズ」の大意が「本当に充ちたりているものは、なかが空虚のように見えるが、それを用いても尽きることがない」(狩野博幸訳解/「異能の画家 伊藤若冲」『芸術新潮』2000年11月号)であることを知った時、私は思わずポンッと手を打って我が意を得たりと言いたい心境になった。



《糸瓜群虫図》 1752年
絹本著色 111.5×48.2cm
(財)細見美術財団所蔵

《鶏頭蟷螂図》 1791年
絹本著色 103.1×55.5cm

 そこで私は、あらためて実見に際して私が発見したこの若冲の「円」を確かめるべく会場へと足を運んだのである。・・・が、いざ会場で実作に対峙してみると、図版であれほど目に付いた若冲の「円」は、不思議に目立たないのである。実作を前にして感じるのは「円」ではなく、むしろ筆触の動勢を伴う「ループ」と言い表した方が良いものなのであった。私は若冲の実際の絵の中に、無数の「ループ」を発見した。たとえばその代表格が《鶏頭蟷螂図》の中の茎の表現であるが、しかしそれは他の絵の中の草木の茎や蔓の描写 、あるいは初期の《雪中雄鶏図》の中の非現実的な竹の螺旋状の絡みの中にも、さらにいえば、あらゆる絵の中の物象の配置の動線の中にも、発見することができるのである。

 もうひとつ、若冲の絵の中で気になってならないもの、それは「陰影」である。この問題については、実際の作品を前にすると「円→ループ」の観点以上に私の中で一層膨らみを持ち始めた。



《蓮池図》(六幅のうち部分) 1790年 紙本墨画
195.0×89.5cm
 大阪府・西福寺所蔵

 若冲の絵の構図には、西洋画的なパースペクティブは存在しない。その点では明らかに通 常の伝統的な日本画の規範を逸脱するものではないだろう。しかし、その非透視画法的構図の中に配置された花卉草木鳥獣虫魚のひとつひとつには多く不思議な陰影描写 が施され、物象に立体感を与えているのである。その分かりやすい好例として、たとえば著色画の《糸瓜群虫図》や水墨画の《蓮池図》などを挙げることができるが、この陰影法は、やはり大半の若冲画に認めることのできる大きな特徴であるように私には思われる。
 そして、この若冲の陰影法による物象の立体表現への欲望は、そのまま《石燈籠図屏風》のあの燈籠の特異な点描法へと転位 発展して行くように思われるし、また、着色画のうち鶴(《白鶴図》)や鷲(《枯木鷲猿図》)や鸚鵡(《鸚鵡図》)など白い羽を持つ鳥に顕著にみられる異常なほどの羽毛の透明感の描写 も、この立体性への強い欲望に結び付くように思われるのである。

 



《隠元豆・玉蜀黍図》 紙本墨画
143.4×71.5cm 和歌山県・草堂寺所蔵

 さらにこの陰影描写 は、たとえば《隠元豆・玉蜀黍図》の中の隠元豆の周囲に典型的にみられるように、時に物象の外部、大気の中に施されることもある。

 よく見れば、この物体周辺の陰影は《虎図》の虎や《梅花小禽図》(動植綵絵のうち)の樹木など、多くの絵の中で物体の輪郭に施されていることが分かる。

 こうした各種の陰影描写 による立体感の表現は、明らかに西洋画にみられる外光の反映による光と影を顕わす写 実的表現への志向とは別のものである。確かに若冲は、狩野派流の絵の手ほどきに飽きたらず中国宋元の原画の直接の臨模、そしてさらにはそれも足りず自庭に数十羽の鶏を放ち「如カズ親シク物ニ即シテ筆ヲ舐ンニハ」(「若冲居士寿蔵碣銘」/辻惟雄訳解)の精神から、ひとすらに鶏の写 生に専心する。また、数々の絵の中に登場する野菜たちも、家業の青物問屋でたえず親しく接し自然に網膜に焼き付いたそれら物象との写 実的関係を前提としての存在ということができるだろう。その意味で、多く模写 を基本とする近世までの日本画家の中にあって、際だって写実志向の強い画家であったことは確かである。しかし私は、引用した碣銘の中の、それに続く次の短い言葉にこそ若冲の神髄があるように思われるのだ。それは「物乎物乎」のわずか四文字である。この「物ナル乎(カナ)物ナル乎(カナ)」という呪文のような言葉にこそ、若冲の単なる写 実を超えた物象への切迫の強度をみる思いがするのである。若冲の陰影技法によって生まれる物体の立体感は、西洋画の写 実的志向から求められたものではなく、つまり外光の反映ではなく、そのような陰影を施すことによって、物自体が内側から発光し平面 から浮き立つかのような効果を顕わすのである。それは、非透視画法的平面 空間と相俟って、極めて非日常的な、まるで「夢の中の実像」とでもいうような、不思議な物象の実在感を作品と対峙する観者に感得せしめるのだ。



《付喪神図》
紙本墨画
129.2×27.9cm
福岡市博物館所蔵

《百犬図》 1800年
絹本著色 142.7×84.2
cm

 この独自の陰影表現が生み出す実在感と、先に述べたループ感とは、決して切り離して論じられるものではない。この二つは、密接な関係を持って若冲の絵画を若冲の絵画たらしめている大きな要素の一角を占めているように私には思われる(むろん若冲のすべての絵画に当てはまるわけではないが)。物象と構図全体にたくまれた大小のループ感、それが生み出す画面 の浮遊感覚。同時に浮遊する物象ひとつひとつの内から発光するような光陰を纏う立体感。この二つともによって生じる若冲の世界は、私たちに夢、あるいは宇宙の中の実在というものを指し示しているかのようにも思える。

 私は、若冲の絵をしてこう名付けたくなる衝動に駆られてならない。若冲の絵は「宇宙画」である、と。あるいは夢の中の実在感という見地からすれば、近世日本に突如生まれたシュルレアリスム絵画と呼んでもいいかも知れない。しかしやはり、「宇宙画」という言葉が、一番ピッタリするように思われるのだが、如何なものだろう。

 



《風竹図》 1752年頃
絹本墨画 103.0×38.5cm
(財)細見美術財団所蔵

 このほかにも、あまり他で大きく取り上げられていないがやけに気になってしょうがないことは、まだまだある。つまりそれだけ、観る者それぞれが多種多様に考えさせられる衝撃的な展覧会だったということなのだろう。混沌としつつも、思いつくままに挙げていけば切りがなさそうなのでこの辺りでこの拙稿はひとまず筆を置いた方がよさそうなのだが、もうひとつだけ、ちょっと触れておきたいのは、《風竹図》の、あの風の揺さぶられた竹の表現である。

 この視覚の残像描写 は、まるで未来派ジャコモ・バラの犬の四肢であり尻尾ではないか。写 真というものが未だこの国に存在していなかった時代に、このような多重焼き付けのような表現に思い至ったこと自体が、例のモザイク画以上に私には不思議でならない。なぜならモザイク画の方は西陣織の下絵やインド更紗との関係など、それなりに発想の成り立ちに説明が付くからだ。

 この絵1点をとっても、やはり時代を飛び越えた「宇宙画」の絵師と呼びたくなるのであった。

 

 

 

「没後200年 若冲」展

2000年10月24日〜11月26日/京都国立博物館

 


※なお、今回の展評は、若冲展については次回に掲載し、本来は以前に予告した「間」展の続報として、11月23日に東京藝大美術館で行われる予定だった大野一雄の舞踏公演について書くつもりでいた。しかし、当日藝大に向かう途中、念のために問い合わせてみると、嫌な予感が的中し、公演は中止になったという。理由は「ちょっと怪我をなされたので」ということだった。そんなわけで、すでに「間」展も終わり、約していたパフォーマンスの続報を記すことはできなくなったことをここにお詫びしなければならない。それにして、大野一雄よ、大丈夫なんだろうか。「細江英公」展で少し触れた不安が、どうか現実のものにならないでもらいたい。大野一雄の肉体よ、その花を21世紀に引き継いでくれることを願って止まない。

 

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