22.


《太陽の塔》(万博当時)
全長70m コンクリート

 この展覧会については、本来去年のうちに書きたいと思っていた。しかもその最後の号に。むろん世紀の変わり目を意識してのことだが、「トリを飾る」という気持ちからではない。とはいえ、われわれの国の20世紀を考えるとき、そのものの良し悪しを超えて、《太陽の塔》がある種の歴史的象徴であることは確かだろうと私は思う。それゆえその世紀の最終号に《太陽の塔》について語ることは、それなりに相応しいことのように思われたのだ。

 だが、残念ながら旧年中の展観の機会を逸し、逆に新しい世紀の最初の展観として本展を取り上げることとなった今、必ずしもそのタイミングが誤りだったとは思われないのはなぜか。それは、展観前には《太陽の塔》をひとつの世紀の決算として捉えようという意識があったものが、展観後、多少ともその認識を新たにさせられた思いがあるからだ。

 われわれは、《太陽の塔》を旧世紀の遺物として決算し葬っていいものだろうか。むしろあらゆる矛盾を抱きかかえたある時代の象徴として、このすでに来たった新たな世紀に引き受けていくべきなのではないか。足尾銅山の廃墟が日本近代の産業史を象徴する貴重な遺産であることと同じ意味で、《太陽の塔》は少なくとも20世紀を証言する数少ない有形の遺産のひとつであるに違いないのだから。――そんなふうに思うと、千里ヶ丘の丘陵にポツネンとさびしげに聳え立つ《太陽の塔》の孤影をとらえた写 真を眺めつつ、ふと「おまえ、壊されなくてよかったなぁ」などと、声をかけてみたくもなるのであった。

 


《太陽の塔》(現在)大阪府千里・万博記念公園内

 と、このように書くと、なにやら私が相当に《太陽の塔》に入れ込んでいるようにとれるだろう。しかし、本当はそれほどでもないのである。というよりも、《太陽の塔》について何かを語ることは、何気ない日常のおしゃべりでならともかく、公然とした形では、むしろなんとなく恥ずかしい。したがって、森村泰昌やみうらじゅんや遠藤賢司のように、「太陽の塔讃」をあけっぴろばに語ることのできる人種とは一線を画すのである。ましてや世にあまた存在するファナティックな《太陽の塔》ファンからすれば、私などけしからん輩に属するに違いない。

 けれども、それを語ることに羞恥心と同時につい「おまえ」などと呼びかけたくなる親近感を覚えるという、このビミョーな感情はあきらかに関係の至近性によるものに相違ない。それは身内について公の場で語る際に湧き起こる感情に似ているだろう。思うに、こうした私的感情を《太陽の塔》に対してどうしても持たざるを得ないのも、いささかやむを得ないことなのだ。なぜならEXPO'70当時大阪に暮らしていた10歳の私は、当然ながら親に引っ張られて幾度となく万博会場に足を運び、繰り返し《太陽の塔》を仰ぎ見た者であるからだ。そのような万博体験を持つ世代の多くの人にとっては、私同様《太陽の塔》という存在は、どうも客観視できない対象なのではないだろうか。《太陽の塔》という言葉は、いやがうえにもある時代の雑多な私的記憶を呼び覚ます装置として機能してしまうのである。

 また、われわれの世代は公教育の現場で《太陽の塔》を通 して「人類の進歩と調和」なる理念を刷り込まれた経験を持つ者たちでもある。図工の時間に《太陽の塔》を描かされた記憶を忘れることはできない。――といっても、本当に《太陽の塔》を描くことを強要されたのか否か、その記憶は定かではない。あるいは、「全世界」(と、小学5年生の子供の感覚からすればとれたのだ)が万博のお祭り騒ぎに沸き立っていた当時、多くの子供たちがむしろごく自然に自発的な絵のモチーフとして《太陽の塔》を選び、それが教室中に伝染して私も描いた、というのが真実かもしれない。しかしたとえそうであったとしても、やはりそれは、時代の空気に強要されて「描かされていた」ということになるとも言えるだろう。そして、真否のほどはともかく、一人の人間が30年前の子供時代の記憶として、「描かされた」という強要の感覚とともに当時を思い起こさざるを得ないこと自体が、実は万博をめぐるかつての社会的問題の本質を突いているとも言えるのかもしれない。

 だが今は、ここで「反博」について考えようというのではない。あくまで本稿の主題は《太陽の塔》なのである。「同じではないか」と言う人がいるかもしれない。《太陽の塔》が万博の象徴であるならば、《太陽の塔》を考えることは万博を考えることではないか、と。しかしそれは違う。確かに《太陽の塔》は大阪万博を振り返るとき、その視覚的象徴ではある。だが《太陽の塔》は万博それ自体の象徴ではない。むしろ万博全体の空騒ぎをもっともよく象徴するものは、「コンニチハ〜、コンニチハ〜」の三波春夫の歌だろう。そして、それから30年経った今世紀最後の年の紅白に三波春夫の姿はなく、千里が丘にいっさいの万博パビリオンの姿はなく、ただ《太陽の塔》の孤影だけが夜風に吹かれて佇んでいる。いくぶん背中を丸めながら。

 


《タイムカプセル》
現・大阪市立博物館蔵

 そうは言っても、本展へ足を運ぶ自分の中には、他の多くの人たちと同じように「あの万博」の記憶探しの気分が多少なりともないとはいえなかった。いや、実際にはその思いはある種の「期待」の念として、大いなる比重を私の内部で占めていただろう。しかし、その思いを抱いて会場を経巡ると、記憶の綻びは思いの外に大きいことを知るのである。万博にまつわる数々の記念グッズやポスター、あるいは写 真や模型を眺めても、そこからはほとんど生々しい記憶を想起させられることはない。「懐かしさ」が湧かないのである。結局のところは、そこに展示されているもので私にとってリアルなものは、万博会場の人混みを俯瞰した写 真と、あとはせいざい長らく家の中にミニチュア模型が飾ってあった松下電器のタイム・カプセルぐらいなのだ。

 そのタイム・カプセルが、ほかの人には記念メダルやあるいはミニチュアの《太陽の塔》かもしれないが、いずれにせよ私にとっては、記憶の断片はあくまでも断片にとどまり、「時」の全体を膨らませることはなかった。とくにいくつかのパビリオンのミニチュア模型などは、確かにそこに足を踏み入れたはずなのに、その断面 化された内部をいかに覗いてみても、なにも蘇るものがなく、その古びた模型に醒めた視線を送る自分を知るばかりなのである。

 そしてそのとき私の脳裏には、この展示会場のどこにも片鱗のない極私的ないくつかの記憶がふつふつと沸いていた。
 ひとつは、閉会式(私はなんと確かにそこに両親とともに観衆の群れの中に立っていた記憶がある)の式典の最中、器械的なダンスを踊る何千人もミニスカートの少女たちの中の私のすぐそばにいた一人が、きっとあまりの緊張のためであったのだろう、しばらく両足を捩じらせてもじもじしていたかと思うと、ついに目の前で失禁してしまったその光景である。少女の足元には、ゆっくりと小さな湖が広がっていった。しかもその少女は、そのような私的大事にもかかわらず、なおその後も何千人の少女の中の一人として私の目の前でダンスを踊り続けていたのである。「人類の進歩と調和」を寿ぐ祭典とはなんと恐ろしいものかと、私はそのとき感じていたのであった。

 このような幼心に衝撃的なシーンと比べると、あとの記憶は大したものではない。たとえばそれは、どこかのパビリオンでもっともコーフンして見物した引田天功のマジック・ショーであり、また、それを飲んでから数日間腹具合が変調したポルトガル館のコーヒーの苦い味であり、あるいはご多分に漏れず何時間も並んでやっと入ったアメリカ館の「月の石」の残像である。それにしても、話が戻るが、尿意に苦しめられたのはあの少女ばかりではない。私もまた、不思議に万博に行くとやたらとトイレに行きたくなった。「どうしてそんなにトイレが近いの?」と、母に叱られた記憶がある。ついでに「やめなさい。そういうと余計に行きたくなるんだから」と言って困った顔をしていた父の表情も思い出される。あれはなぜだったのか。今から思えば、きっとどこのパビリオンに入るにも長時間待たされるという恐怖心からくる心理的作用だったのだろう。だが当時の自分にとっては、そのことが実に不思議であった。

 万博について語るのではないと言いながら、意に反して、結局万博の、しかもいかにも仔細な私的記憶ばかりを長々と綴る羽目に陥ってしまった。要は、本展の数多の表象と向き合っても、どうにもあの「日本万国博覧会」なるものの全貌が膨らみをもって蘇ってこないことを、言葉を変えて繰り返し述べているに過ぎないのだが、しかしそれは、私の記憶力の貧困によるものとばかりは言えない気がする。また、必ずしも本展の展示方法の問題というわけでもないように思う。あれから30年経た今、「人類の進歩と調和」を大上段に掲げたあの祝祭とは、結局そんなものだったのではないか、ということだ。

 「私は万国博以前と以後において、人間像自体が変化すべきだと考えている。もしそうでなければ、人類の文化史に巨大な爪あとを残すことのない、ただの見世物ならば、ほんとうに空しいと言わなければならない」というテーマ・プロデューサー岡本太郎の誇り高きマニュフェストは、残念ながら空しく空に響く結果 となったと「言わなければならない」。そして、その虚空に漂う残響に耳をすませるかのように、一人孤独に《太陽の塔》だけが、今もなお佇立している。テーマ・プロデューサーの思惑とは裏腹に、いかにみても、万博がこの国の高度経済成長の成果 を世界に誇示するための極めつけの政治的装置として機能すべく意味付けられた「結果 」としての所産であったことは否定しようもない。と同時に、今日的な「結果 」から見れば、ひとつの時代のピリオドとしての記号的な役割を担うことともなった。そして《太陽の塔》は、その記号の象徴として神話化されて今ここに残る。

 …と、このようにまとめてしまえば、どこまでも話は万博から乖離することはできない。しかし、このような《太陽の塔》をめぐる社会史的な解釈は、あくまでも《太陽の塔》の一側面 に過ぎないのではないか。《太陽の塔》には、どうもそのようなまっとうな解釈では括りきれない何かがある。それは果 たして何か? 本稿はむしろ、そのことについて論旨を深めてゆきたいのである。でなけば、つまらないではないか。

 

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