text/吉田直平
p r o f i l e


 
 
 
 
 
 

「その町の少年は皆、同じ髪型をしていた…」という惹句のとおり、吉野刈りをしているのはひとつしかない小学校の男子だけなのだから、映画「バーバー吉野」の世界には特権的に少年(具体的には12歳前後の少年)のみが存在していると言ってよく、だから、「スタンドバイミー」と同じように、そこでは大人になるためのイニシエーションが描かれることになり、そこでお決まりの「和製スタンド・バイ・ミー」などという枕詞が付されたりするわけで、そういえば「ミスティックリバー」の宣伝コピーにまで「スタンド・バイ・ミー」が引き合いに出されていたのには、いいかげんうんざりで、さほどのオリジナリティがあるわけでもなく、スティーヴン・キングの映画化の中では比較的よくできているにすぎないロブ・ライナーの映画を、文字通り人生最高の映画のように称える人の多さにには、今さらながら驚かされる(アメリカ人はどうなのだろうか)。

「女性であるにもかかわらず」少年特有の生態をよく捉らえていると荻上直子監督を称賛することに対して、なんだかねえと思うのも、そんなことを言う奴が「スタンド・バイ・ミー」を特権化しているのにちがいないと決めつけたくなるからで、たしかにきめ細かい編集や画面設計、青空をバックにプッチーニを歌う「ケケおじさん」森下能幸の演出などには潔癖な大胆さを感じはするものの、そんなにうまくない子役たちの動きを活かしたロングの画面が多い中で、見分けのつかない吉野刈りをした主要5人の少年を個性づけて撮ることは、スティーヴン・キングが得意とすノスタルジックな時空間の現出とはまた別の能力と技術の問題だと思えるからである。

そもそも、ここでの主題は「見分けがつかないこと」であって、床屋常連の桜井センリが説明するように、町の吉野刈り風習の由縁が、子供を掠おうとする天狗に少年たちの見分けをつかなくさせることにあったのだとしたら、その隠蔽の対象は、もちろん、大人になろうとしている少年にこそほかならず、画面にほかの年齢の少年は現れることがないのもそうしたせいであろうし、子供でもないのに吉野刈りをしている父親の浅野和之は、大人になりそこね、共同体から逸脱しつつある者で、近寄ることのないキャメラが映す、感情を押し殺した担任教師の三浦誠己のよそよそしさこそが大人であり、映画の外部なのだ。

この週、もう一本見た「ヒッチ・ハイク 溺れる箱舟」はかったるい映画で、見ていていらいらしてしまい、DVD特典のインタビューでは、展開を読めぬ状況が面白いと思ったと監督が語っているのだが、実際には本気かと思うほど「ベタな」展開で、思わず、ロードムービーとは低予算映画の同義ではないだろうとか、移動感の欠如したこの映画のどこがロードムービーなのかと悪態をつきたくなる。

健康ランドのような空疎な新千歳空港のロビーで寺島進がノートPCを開き、やってきた竹内ゆう紀と車に乗り込み、小沢和義を拾って国道沿いの食堂でカレーライスを食べるあたりまではまだいいのだが、映画が不意に退屈になるのはその直後で、預金を解約するモンタージュに続く展開があまりに平板で緊張感に欠けるので、もしや銀行のシーンをを起点とする夢の話(「マルホランドドライブ」のような!)なのかと勘繰ってしまったが、もっとも、この映画は(監督が「想を得た」と認めるとおり)、フランコ・ネロとコリンヌ・クレリーの倦怠期夫婦がデヴィッド・ロスのヒッチハイカーを乗せる「ヒッチハイク」の変奏に過ぎないのだから、そんな深読みも無用なのだ。

拘束によって閉鎖された車内と、車外の無辺な北海道の描写がコントラストをなしているとは言い難く、かつて学生の頃はバイクを駆る人であった本誌「螺旋展画録」の慧厳氏は、自動車を運転しない理由として、「逃げ場がないような感じがする」と述べていたものだが、外れないセーフティベルトの描写まであるにもかかわらず、犬のように拘束に従順な状況(未見だが横井健司というのは「飼育の部屋」の人である)が、そのまま、映画から閉鎖感を希薄にしているのはまことに芸がないことと感じられ、例外はカーセックスのシーンで、二度にわたるこの場面(一度目と二度目を見比べさせようというのだろう)は比較的よくできていた、しかし、もちろん、伝説的なレイプシーンのある映画として知られる「ヒッチハイク」のコリンヌ・クレリーに見劣りしてしまうことは否めない。

2004年12月27日号掲載