text/吉田直平
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キューティーハニー
  天祭陽子
  スパイダーマン2
 
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 サスペンス映画をいくつかまとめて見たので、例によってトリトメなく書いてみよう。

「愛してる、愛してない…」の原題は「A la folie...pas du tout」である。フランスの花占いには、Il m'aime un peu(彼は私のことを少し好き)/beaucoup(大好き)/passionnement(すごく)/a la folie(死ぬほど)/pas du tout(全然)と5つの分岐があるという。最良の「死ぬほど」を1枚めくると「全然」という最悪の結果になる(「好き」にならない確率は日本の花占いの 2.5倍だ!)という遊戯性が、この映画の前半と後半の対比を表しているわけだが、しかし、仏版予告編を見ると、日本公開時のように、それを意外性のあるどんでん返しとしてプロモーションをしようという意図はあまり感じられない。

 オドレイ・トトゥ人気を生んだ「アメリ」(ジャン=ピエール・ジュネのマニアックさをポジティブに転化した無邪気な現実逃避映画)もまた思い込みのはげしい少女の物語だったわけで、だからこの映画をオドレイファンが「裏アメリ」と呼ぶのはもっともで、いかにも狙ったふうなキャスティングということになるのだが、実際には、「映画の中の狂気」という卒論を書いたという26歳のレティシア・コロンバニ監督がオドレイを起用したのは「アメリ」のクランクアップ後らしい。

 オドレイ・トトゥの相手役サミュエル・ル・ビアンという男優はアメリカ人ふう、ダヴィッド役のクレマン・シボニーはいかにもフランス人である。パリジェンヌがアメリカ男性にぞっこんになるというのは映画によくある話だという気がするが、サミュエル・ゴールドウィンがこの映画のリメイク権を買ったらしいと聞くと、この映画からパリという舞台とフランス娘の要素を置き換えてしまうと何が残るのか心配になる。

 たとえば、1997年のスペイン映画「オープン・ユア・アイズ」を2001年にトム・クルーズが「バニラ・スカイ」としてリメイクするにあたって、同じペネロペ・クルスを同じソフィア役に起用したのは、友人の恋人を奪う主人公の青年のふるまいにどこか似ていて、大事なものを奪われたような不愉快な心持ちに観客をさせる。もっとも、ディカプリオと並んで世紀の大根役者にほかならないトム・クルーズには、結局エドゥアルド・ノリエガほど不愉快な男を演じることができなかった。単に美しいペネロペといちゃいちゃしたいためだけに「バニラ・スカイ」を撮ったようにすら思えるのである(ところが、皮肉なことに、戯れるペネロペの画面については、恋人トム・クルーズによる「バニラ・スカイ」のほうがよく撮れているように思う)。

「オープン・ユア・アイズ」はていねいに作られたサスペンス映画であり、好感がもてるのだが、アメナーバルは23歳で「テシス」を撮っていて、こちらも興味深い。「オープン…」と同様ノリエガが怖い役で出ていて、日本ではどういうわけかノリエガより人気があるフェレ・マルティネスもどちらにも出ており、二人とも同じような役柄である。だが、そんなことよりも「テシス」のヒロインのアナ・トレントはなんと「ミツバチのささやき」のあの少女アナなのであり、思わずため息が出てしまう。アナとフェレが二人ともウォークマンをしたまま視線を合わせ、近づいていく場面(キャメラが切り返すたびに音楽もそれぞれが聴いているヘヴィメタとクラシックに切り替わる)は、「オープン…」で、ペネロペ・クルスとノリエガが似顔絵の描きっこをする場面に匹敵する名シーンであろう。この監督はこういうのが好きなのか。

「テシス」はスナッフフィルムが題材なのだが、暴力シーンはほとんどないにもかかわらず、全編を通じてやたらとまがまがしい雰囲気が漂っている。この題材を扱ったものとしてはアンソニー・ウォーラーのデビュー作「ミュート・ウィットネス 殺しの撮影現場」が思い起こされる。mute witness というヒチコックばりの設定が泣かせ、最後まで、というか厳密には真ん中ぐらいまでだが、画面から目を離せないサスペンス映画の醍醐味を味わうことができる。この監督は「脅迫者〜バッド・スパイラル〜」(劇場公開時のタイトルは「バッド・スパイラル〜運命の罠」)という忘れがたい冒頭シーンがある映画も撮っていて、演出のテンポ、カット、ともに驚嘆の思いで引き込まれる。「脅迫者」では、フツー死なないはずのガブリエル・アンウォーがあっさり殺されてしまうのでびっくりし、誰にも感情移入させないように書かれた、サスペンスとしてはフシギな脚本で、「ミュート・ウィットネス」と同様に結末は最後まで読めず、110分もあるので(「ミュート…」と同じ90分台にすべきだったろう)、観る者を疲れさせてしまうのが難点。

 脚本が悪いといえば、最近見た中では「ホワット・ライズ・ビニース」に尽きるだろう。ロバード・ゼメキスは、これをヒチコックへのオマージュだなどと本当に言ったのか。プロット序盤の「隣家の夫婦」がなんの伏線にもなっていないばかりか、中盤も過ぎて初めて、キーとなる「主人公の過去の謎の行動」が観客に明かされる(謎の行動の理由ではなく、行動自体が伏せられている)。これを明示してしまうと観客には先が読めてしまうからだが、これはサスペンスとしては大失格だし、ほかにも無駄なエピソードやほのめかしなどが多数。ドリームワークスの映画らしくCGがふんだんに用いられているのだが、これだけの予算をかけてB級映画をつくることがあらかじめ失敗作を運命づけられていたのは、むしろ自明のことと言える。案の定、大部分の観客に与えられたのは、「いちばん怖かったのは音楽の強弱」という印象だったのだ。運命に気づかぬ顔をして 130分もの長すぎる映画を完成させてしまった監督の罪は重い。

2005年10月10日号掲載