アリエル・人魚
p r o f i l e
※本連載は筆者サイト[銀の人魚の海]に掲載されたものを再編集したものです。

 自分のホームページ開設して以来、少ないが特定の日本の監督作品を連続鑑賞し、ページを作ってきた。今年、生誕100年ということで、数本しか見ていない成瀬監督を、BS放映とフィルムセンター上映をきっかけに続けてみようと思い、勝手な推測だがヨーロッパの香りも多少予想しつつ、楽しんでいきたい。小津、黒澤、成瀬の中では一番好きな監督になるのではないか。

 BS特集最初の「女性映画の名匠・成瀬巳喜男の世界」は、ゲストを迎えてのトーク構成だった。NHKっぽくてそれ程面白くはない。

 岩松了と行定監督の対談で行定が大の成瀬ファンだと知り、ビックリ。昨年、都内の大学祭で講演を聞いた時と同じ風貌、マイク・マイヤーズみたいなヘア。成瀬は敬愛する監督で、この数年、自分の映画を撮り終わったら必ず成瀬映画をじっくり見る、というほど好きだそうだ。石田あゆみとなかにし礼の対談では、石田の態度が媚びている感じ。成瀬作品に出たかったそうで、なかにし氏も昔から大好きな監督とのこと。

 「年をとると妻より母が大事に思える」とまじめに書いているのを読んで唖然とした川本三郎(元新聞記者、その後ジャンル問わずの評論家)が選んだ成瀬ベスト1は「お母さん」。納得した。

めし

1951.11.23封切/東宝/97分 原作:林芙美子 脚本:井出俊郎・田中澄江出演:上原謙・原節子・島崎雪子・杉葉子・杉村春子・小林桂樹

 小津監督の「麦秋」をおさえ、毎日映画の監督賞を受賞した作品である。

 結婚のお話で、見ていて気になる細かい事など多々あるので、感想とあわせて書いてみたい。

 
 
 
 
 
 林芙美子はこういう小説を書いていたのか。もっと現実的な作家だと思っていたので予想外だった。簡単に言えば、早めの(?)倦怠期を迎えた夫婦のちょっとした危機、たあいのない妻からの意地張りケンカで、ラストは二人のおのろけで締めてあり、外からはそう見えないが実は幼い夫婦の心のお遊びだと思う。

 昭和26年という時代に、実家へ帰って「夫のことはいいの、東京で働きたい」という離婚の決意めいた言葉を、人生の一大事でもないようにサラッと言う原には、非現実感が溢れている。戦争未亡人らしき子持ち友人の態度とは大違いで、原は夢想家なのか? 結婚の現実を知らない女性だなと思う。

 見ていて、全く関連のなさそうな好きな映画「エル・スール」を思い出し、この映画の女性二人(妻と姪)に比べれば、あの少女の大人ぶりは凄いと思い、でも「エル・スール」も夫婦の物語ではあったのだから、遠いようでほんの少し近い所もあるのかもしれない。

 原も姪のさと子も、甘えがある世間知らずの女性だが、当時はこれが普通なのだろうか。隣の芝はよく見えるという感じで、原はクラス会で羨望の的だが、現実は違うのよと密かにモンモンとしている。結婚はさまざまだし、こんなものなのだという実感は原にはなく、5年経っても理想を追う少女のようでもある。夫はとても良い人なのに。この同窓会シーンは小津作品と似ているものもある。

 姪のさと子のふるまいは、とても奇妙なもので、原の夫への思慕があふれ過ぎている20歳。叔父を名前で呼ぶ事もあまりないと思うが、不自然な態度で、例えば手をつなぐ、腕を組むなど、叔父としてはどういう気持ちなのだろう。彼もまんざらでもなさそうな表情が、ますます奇妙な感覚を抱かせる。その親密さに原は嫉妬し、日頃の不満も重なって実家へ戻るのだが、姪の長期滞在がきっかけという展開は面白い。

 結婚5年目で子供がいないという夫婦は、この時代なら、もう子供はできないのかという見方をされていただろうが、そういう視点は皆無で、あくまでも夫婦の問題として描いてある。そう言えば、原の弟夫婦も子供がいなかったので、あえて子供は無しの設定にしたのか、何か他に意図するものがあるのだろうか。

 ゆりという猫を可愛がっている所も興味深く、「猫、大嫌い!」と言い放つおめかけさんの存在と原が対比されているようでおもしろい。

  ラスト、仲直りした夫とビールを飲むシーンの表情は、とても結婚5年の妻ではなく恋人同士という感じで、子供のいない夫婦はずっと恋人みたいだと語った、監修だかに入っている川端康成の関わりを思った。

 どうも原節子は嫌いな私。ここでも、この役が合っていないような気がした。小津映画同様、原は媚びた口調と目つきで、わけもなくニヤニヤしたりする。この辺りが私には生理的嫌悪が感じられ、どうしようもなく、原が美人で色気があるという見方が理解できない。顔の造作も大きく体も骨太で、男性的なので、媚びる役より男装、男性的な役が似合うと感じている。小津の映画でもそうだが、私にとって原の容姿は濃過ぎる。黒澤監督の映画の方が似合う気がしてしまう。

 成瀬映画の魅力のひとつは、舞台となる家、その周りの道などの映像だ。小さな路地に向かい合ったここでの家並みを原は長屋暮しと言うが、そうなのだろうか? 大阪市の郊外の日常が何軒もの家から溢れ、駅へは小さな階段を上がって行くという家関係ロケ設定も上手い。駅からの帰り、階段を数段を下りて家に着くシーンは、何回も撮られる。さらに夫婦の家は表に引き戸が二つあり、その開閉のしかたに、その時々の感情が表現されている気がした。おじと姪が市内観光バスに乗るシーンや難波の繁華街など、風景と男女も良い感じで撮られていた。

 鼻血が出るシーンの大袈裟さに笑った。確か「山の音」では原が鼻血を出すと義父が診るのだったが、ここでは叔父が姪を診る。私もたまに鼻血が出るが、ティッシュで押さるだけで大丈夫だ。当時はここまで大袈裟だったのか、それとも演出なのか。

 現代との違いはお米の研ぎ方にも感じた。今はささ〜っと二回位まぜて流しているが、昔は「研ぐ」という言葉通り、原が不満を抱えてお米をギュギュッと研ぐシーンは力の入れかたが痛ましいほどで、不満をお米にぶつけているように思えた。

 食事に関してはもうひとつ、原の弟夫婦の会話だったと思うが、「コロッケとカレーが交互に出る夕飯…」というセリフがあり、自営の家でコロッケは疑問だと思ったが、買ってきたコロッケと作るカレーという意味なのだろうか? コロッケは作るのはとても面倒で、専業主婦でも忙しい時はコロッケは作らないが、当時気軽に買えるお惣菜でコロッケを売っていたのだろうかと疑問。もし作るコロッケなら、林芙美子はコロッケを作る事が大変だと知らないのではないか。

 タイトルの「めし」は日常というような意味でつけているのだと予想していたが、それに反して、子供のいない妻の理想、妄想観が描かれていたので、意外だった。

2005年10月24日号掲載

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