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text/金水 正

われわれが長い間かかずらってきたのは、「主体」というものが想像的な産物であり、「自由な主体」などというものは存在しないという主題であって、そこでわれわれ「知識人」がなし得るのは基本的にはその現実を批判することであり、その批判の可能性が、すなわち闘争の空間の可能性であったと思われるのですが

柄谷行人の『倫理21』を、Y君はもう読んだのですね。
柄谷は最近カントのことをよく引き合いに出していて、この本はその柄谷のカント解釈のまとめにもなっていると思いますが、柄谷のカント解釈を云々する力は僕にはないです。きっと柄谷のカント解釈なんてとってもクセの強い、哲学プロパーの人には鼻持ちならないようなものだろうと思いますが。哲学などというものは、結局は自分の関心に引きつけて読まなくては意味のないものでしょうが、哲学を学問としている限りは、それなりの流儀で、それなりの扱い方をしてやらないとつまはじきされてしまいます。しかしわれわれとっては、そんなことは結局どうでも良いことです。

さて、『倫理21』の内容に関してですが、しばらく前に読んでいていま詳細にそのことを書く準備が整わないので、簡単にしか感想を書けないと思いますが、どうせ書くならもうちょと準備してきちんと考えて書きたい、そう思わせるほどにこの本のことは面白いし、価値があると考えている、というのがまず最初の評価です。

おそらくポイントは、一方で「主体」とは想像的なものであり「自由」はその意味では存在しないにも関わらず、「義務あるいは至上命令」に従うことにおいてのみ、それ(「自由」という理念)は存在すると書かれていることの意味をどう理解するか、ということにあるでしょう。「統制的理念」という柄谷の最近のキーワードがそこに絡んでくるのでしょうが、きっとこれは必ずしも新しいことを言っているのではないにも関わらず、我々にはとても新鮮で新しく感じ、新たな(こういって良ければ)闘争の空間を開いてくれているように感じます。
というのは、われわれが長い間かかずらってきたのは、「主体」というものが想像的な産物であり、「自由な主体」などというものは存在しないという主題であって、そこでわれわれ「知識人」が(というのはもちろん二重の意味でシニカルに書いているのですが)なし得るのは基本的にはその現実を批判することであり、その批判の可能性が、すなわち闘争の空間の可能性であったと思われるのですが、そこのところに、ぽっかりと別の空間を柄谷が開いて見せてくれているように思われるからです。

したがって、われわれとして(というのは、構造主義的な--と柄谷に書かれている--「主体理解」にかかずらってきた者としてという意味になりますが)検証しなければならないのは、もういちど立ち戻ってその想像的な「主体」理解と「統制的理念」のもとにおける「自由な主体」の関係を問うことでしょう。これもきっと新しい問題ではなくて、「古い問題」に属するのでしょうが、それを再び持ち出してきているのが、もしかしたら新しいということなのかもしれません。
柄谷のこの本においては、「想像的な主体」を捨象して、「自由な主体」をある原則のもとに論じることが可能であり、あるいはそうすることだけが可能であり、またそうしなければならない、ということになるでしょう。
ひょっとしたら「実践的」という言葉の意味をこれまで自分はよく知らなかったのかもしれない。というのも最近メルロ・ポンティの昔好きだった文章の中に「実践的」という言葉を見つけて、そう思って読み返すと、この言葉はカントに由来していたのかと思われるからです。これももうちょっとよく調べてみないと分からないことですが、そのように考えてみることはメルロ・ポンティの言葉をあらためて刺激的に見せます。

時間がないので、今日はこれだけのことしか書けません。また機会があれば、もう少しまともなことを書いてみたいと思います。
では、また。