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text & midi/青木重雄

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スティーブ・ライヒ
『ピアノ・フェイズ』

 

 現代音楽という世界はとても閉じた世界である、という印象が強かった。いや、今でも強い。昔、打楽器の訓練を受けていたこともあって、日本の現代音楽の草の根的作曲家も多く見てきたけれど、変なタイトルをつけるなあ、とかそういう印象しかなかった。大きくなるにつれてあのむちゃくちゃに見える音の並びはある意図に基づいたものだ、ということがわかってきた。それなりに面 白いと思うようにもなった。それでもやはり目の前で演奏家が演奏している姿を見る楽しみ、これがなければ面 白いとは全然思えなかった。つまりレコードで聴いたことは全くなかったのだ。カーン、キーン、コーン、ダカダカドガシャグワシャカビーン、こんなの音だけで聴くのはそうとうしんどい。大学で現代作曲家グループを主催していた音楽家の先生がいたけれど、タイトルを見て「うーん」。だったら聴かなければいいじゃないかそんなもん。しかしどうしても「ひょっとしたら面 白い世界なのかも」という思いは消えなかった。小学生の頃、打楽器の師匠が演奏会で演奏したスティーブ・ライヒの「ピアノ・フェイズ」のせいだ。

  音楽とは何かということを考えていくと、究極はやはりジョン・ケージの「4′33″」だろうと思う。思うのだけれど、じゃあ何度も「聴き」たいかというと1度として聴き通 したことはない。そんなものは「聴ける」のかというと、実はヤン富田がCDにしていて、4分33秒間無音が「録音」されている。でもね、聴かないですよふつうは。聴いた人いるのかな。とにかくやった者勝ちの世界ではある。デュシャンの「泉」とか。決してケージの意図がばかばかしいというのではない。あれはあれで実にまじめな音楽の解放だと思う。「聴く」という姿勢こそが音楽を作り出すという考えをパフォーマンスしてみせたのはすごい。そう、現代音楽というのは近代までの音楽をなんとかして解放しようという運動なのである。解放するとどうなるかというのはまだよくわかりません。勉強してきます。しかし「音楽」というからには音の工夫で勝負して欲しいわけですよ。で、たぶん一番理解されやすかったのがライヒ。ライヒの音楽はたしかに聴いて心地よいというものではなかったけれど、ケージがねらったことを実に現実的なアイディアで、しかも誰にでもわかるように音楽にしてみせていた。「クラッピング・ミュージック」は今や音楽の教科書に楽譜付きで載っているし、HIPHOP周辺ではハウイーBなどがライヒをサンプリングで使用している。

 「ピアノ・フェイズ」は2台のピアノによる連弾曲。同じ楽譜をふたりで演奏するのだが、片方は少しだけゆっくり演奏する。雨の日の信号待ちでウインカーのリズムとワイパーのリズムが合ったり合わなかったりするのを意識したことがないですか。あれです。ライヒは12個の音をパラレルに演奏させ、片方がどんどんずれていく中でメロディが生成されていくことに注目(これは決して心地よい近代的なメロディではないかもしれないのだけれど)。ケージが楽譜に墨をとばしたり、易で音を選んだり、何とかしてランダムな音列を作り出そうともがいていた中で、ライヒはとても簡単なシステムでランダムな音列を生成する事に成功。しかも音数を増やしていけばほぼ無限に(厳密には計算で予測できる音列なのでランダムとは言えないのかもしれないけれど)。簡単な変換で多様な現象を作り出すとかそういうところはちょっと構造主義の親族分析風。実は最近になって、さっき書いたようにHIPHOP系列の人脈からライヒは再評価されてきたのだが、その作り方が似ているということもあるのだろう。出音の複雑さではかなわないのだけれど。

 ということで、今回は音付きで。本当は一回りして元のフレーズに戻るところまで演奏するのだけれど、これは3分の1くらいに短縮してあります。最初のメロディがどんどん変化していく、というよりどんどんメロディが生み出されていくのを聴いてください。

 

 


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