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【'00.07.10号】
相田みつを

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 どうも世相に疎いのでよくは知らないのだが、「カリスマなんとか」という人が様々な方面に存在するらしくいろいろと話が聞こえてくるが、先日「カリスマ詩人」ということを聞いた。それは原宿にいて、道ばたに座っている。そこへ <お客さん> が座り、自分だけの詩を読んでもらうということらしいのだが、見ていた人の話では、若い女性を目の前に座らせた「カリスマ詩人」は、彼女の目を数分間じっと見つめたあとで「優しい心の人は、他人にも優しくなれるんだよ」という <詩> を読んだのだそうだ。するとその女性の目から一筋の涙が…。いや、これは嘘ではない。実際彼はその光景を実際に見て感動したようであった。
 考えみると、これは相田みつをの詩がうけることと共通する問題であるような気がするが違うだろうか。あるいは326(みつる)とか。
 ぼくは職業柄10代の若者と日常的に接しているが、ある16才の女の子が「詩が好きです」と言うのでこれはいまどき貴重なことではないかと思い「へえー、誰が好きなの?」と聞くと、「326とか…」と言われぼくは、ああなるほどなあと感心してしまったのだ。
 もちろんこれは、相田みつをや326を否定するものではない。彼らの作品の善し悪しを言っているのではない。そうではなく、人々が何を求めているいるのかという問題だろう。これは詩そのものの問題ではないが、詩を取り巻く問題としては大事な問題だと思う。
 では、たとえば相田みつを取り上げて彼の作品は何なのかと問うことはまた別の問題である。
 彼の詩はたいてい独特の字体で墨書されているが、活字でテキスト化されたものとそれは違うのか。詩の世界では詩画展などというものもあって結構そういう作品を作っている人もいるが、あれは何なのか。テキストとは何か。字体やフォントやスタイルを伴わないテキストファイル。あるいはテキストと音声化された(つまり朗読された)詩はどう違うのか。

 声

 あなたの声を
 電話で聞いた
 だけで
 その日一日
 こころが
 なごむ
 理屈じゃねんだよ
 なあ

 墨書された場合字は同じ大きさではない。たとえばここでは「こころが/なごむ」の部分は幾分大きく書かれている。それは上のようにテキストされたものとやはり違うのだろうか。



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