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【'00.10.10号】
土井晩翠

日本詩人クラブ編
『「日本の詩」一〇〇年』
2000年
土曜美術社出版販売刊
8,000円税別

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 日本詩人クラブ編による『「日本の詩」100年』という本が今年出た。「日本の詩100年の成果」「日本の詩100年の動向」と題し、多くの書き手がそれぞれのテーマに沿って評論を寄せている。またそれ以外にも、「日本代表詩人名鑑」「代表詩誌選・代表詩集選」などのコーナーがある。ぼくも依頼されて土井晩翠について書いた。本当はぼくが土井晩翠の詩について書くなど全く適任ではないのだが、勉強だと思って書かせていただいた次第。前回横瀬夜雨について書いていてそのことを思い出し今回は土井晩翠を取り上げてみようと思う。
 その略歴については、ぼくが書いた内容をここに再録する。

 土井晩翠 明治四(一八七一)--昭和二七(一九五二)年陸前国宮城郡仙台北鍛冶町(現、仙台市北鍛冶町)に生まれる。本名は土井林吉。姓の読み方は、戸籍上は「つちい」。後に自ら「どい」と改名する。生家は裕福な質屋。祖父・父とも文学に理解があった。祖父の意志により一時向学への望みは絶たれたが、仙台英学塾から第二高等中学を経て、東大英文科に学ぶ。高山樗牛の知遇を得る。東大在学中に「帝国文学」の編集委員となり自らも作品を発表し活躍する。卒業後大学院で修学。同時に郁文館中学で教壇に立つ。カーライルの翻訳を出版。依頼により「荒城の月」作詞。一八九九年、第一詩集『天地有情』を出版。その漢詩調で浪漫的な作風は、与謝野鉄幹により島崎藤村と並んで激賞され、「藤晩時代」と称せられる。同年、林八枝と結婚。一九〇〇年仙台の二高教授。翌年第二詩集『晩鐘』出版。この年自ら退官し私費で欧州を歴訪する。三八年帰国して二高教授に復職。翌年第三詩集『東海遊子吟』。欧州体験を反映させる。バイロン、ホメーロスの翻訳を出版。一九三二年『アジアに叫ぶ』。一九三二年、三三年と立て続けに長女、長男を失い、心霊研究に傾倒する。九年二高教授退官、名誉教授。一九四五年戦火に住家、土蔵を焼かれる。四七年日本芸術院会員。四八年夫人を失う。五二年急性肺炎にて没。八二歳。詩集には前述のものの他に『天馬の道に』『晩翠詩集』『晩翠詩抄』『自選詩集』。また前述の訳業、随筆の仕事もある。

 代表詩集『天地有情』についての改題は以下のとおり。一八九九年四月、博文館刊。最初出版社に出版を断られるが、高山樗牛と久保天随の説得により世に出る。世評を得て版を重ねた。序、例言、詩四十一篇、その他にカーライル、シェリー、ジョルジュ・サンド、エマーソン、ユゴーの詩論と詩人論の抄訳を収める。巻中「星落秋風五丈原」を代表作とする。この詩は諸葛孔明の悲壮をうたったもので、七五調を基本とする文語の多い漢詩調と、浪漫的で男性的な作風を特徴とする。また、幼少からの漢学の素養と西洋思想の感化のあとが見られる。この詩で「丞相病篤かりき」というリフレインが多用されるのも西洋の詩からの影響と考えられる。その他にも多くの対位法が見られる。刊行当初、与謝野鉄幹により激賞され、和文調で恋愛に多く材を取った藤村との対照により「藤晩時代」とも称されたが、後に鉄幹は批判的評価に変わっている。後年、軍歌や寮歌に詩の一節を取られるなど一般には広く受け入れられ、好んで愛唱された。それは晩翠の作風が漢籍からの定型的表現を多く含み、歴史に材を取った叙事詩的作風、高吟調であったことによる。と同時にその作風は、情感の細やかなひだを描く叙情詩、恋愛詩には向かなかった。晩翠自身は後年の詩集を高く自己評価しているが、一般には初期の叙事的作品が代表作とされているのもそういった理由による。しかし新体詩から始まる日本の詩の歴史において、晩翠詩の成し遂げた高みは注目に値する。
 
 ここに言う代表作「星落秋風五丈原」とはどういう詩か。

祁山悲秋の風更けて
陣雲暗し五丈原
零露の文は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか。
 * * *
丞相病篤かりき。

清渭の流れ水やせて
むせぶ非情の秋の声
夜は関山の風泣いて
暗に迷ふかかりがねは
今風霜の威もすごく
守るとりでの垣の外。
 * * *
丞相病篤かりき。

 これは長い詩の、ほんの書き出しに過ぎない。これは三国志を下敷きに丞相すなわち諸葛亮孔明を歌っている。叙事詩といってもいいのだろう。「丞相病篤かりき」というドラマチックなリフレインなどは当時とすれば斬新なものだったのではないだろうか。しかし、こうした作風は詩の歴史のなかでは廃れていき、寮歌や軍歌のなかに明らかに受け継がれていったと思う。



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