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text/引地 正

石原慎太郎のデビューは、三島由紀夫のそれよりもさらに恵まれたものであった。

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太陽の季節   石原慎太郎   新潮社
夜と霧   フランクル   みすず書房
四十八才の抵抗   石川達三   新潮社
帝王と墓と民衆   三笠宮崇仁   光文社
昭和史   遠山茂樹他著   岩波書店
女優   森 赫子   実業の日本
異性ノイローゼ   加藤正明   光文社
連合艦隊の最後   伊藤正徳   文芸春秋新社
モゴール族探検記   梅棹忠夫   岩波書店
飢える魂   丹羽文雄   講談社

 この年、出版社系の最初の週刊誌『週刊新潮』が創刊された。新刊点数が1万5千点になり、重版を合わせると2万5千点にもなった。
 ベストテンは、上記のようで, 出版社別にすると新潮社2冊、光文社2冊、岩波書店2冊、その他一冊ずつが4社である。

『太陽の季節』石原慎太郎
 このうち、言わずと知れたベストセラー中のベストセラーは現都知事石原慎太郎氏の『太陽の季節』である。当時、氏は大学を出たばかりで24歳であった。卒業が54年であるからこの期間は無職と言うよりも、既に作家だったのかもしれないが、珍しい例ではあった。従来の小説家誕生のイメージからすれば、ある種、天才的な特権階級の誕生といった趣である。かの三島由紀夫氏につぐようなデビューの仕方であるが、その三島氏でさえ卒業の当初は大蔵省に勤めたのであったし、これほどのベストセラーも書いていないから、それよりも更に恵まれた小説家であったわけである。
 このように、ベストセラーを書いて登場する小説家の例が過去になかった訳ではないから、この作家も今後はどうなるかといった目で見られていた一面も確かにあったのである。例えば、1919年にベストセラー『地上』によってデビューして、天才とうたわれた島田清次郎のようにである。
 しかし実際は、もはや戦後ではないとした時代のなかで登場した元商船会社重役の長男にして「湘南族」の石原氏には、多分小説家にかける熱意はともかく生活はそれほど無かったのではあるまいか。まさにこれから、サラリーマンの時代ははじまったわけであるから、他に縁 (よすが) のない天才少年とは何からかにまで違っていたわけである。
 貧しいということは、自慢にならない、そのような感慨の強くした時代であった。

『夜と霧』フランケル Viktor Emil Frankl
 Ein Psychologerlebr das Konzentrationslager*『夜と霧』は邦訳名。
フランスでベストセラーになり、映画にもなった『夜と霧』はJean Cayrol(1910-)の作品である。第2次大戦中に捉えられ強制収容所におくられた体験、「その過酷な『夜と霧』体験」が, この作品を書かせている(53年) 。その結果は、この流謫 (るたく) の詩人といわれた作者の感情や思想を根底から覆すことになったが、その新しい世界像は戦後文学に少なからぬ影響を与えることになったといわれる。
 ここでベストセラーとなったのは、オーストリアの精神医学者フランケル(1905-) の『夜と霧』体験が生み出した実録である。第二次世界大戦中に彼はユダヤ人であるために両親、妻、二人の子供とともにアウシュビッツ強制収容所に送られる。その時の体験を一人の心理学者の体験として纏めたのが本書である(47年) 。しかしこの体験が、彼をして新しい精神医学の所説をのべさせるに至ったことは間違いあるまい。わが国では本書が有名であり、本書が有名になるについてはなだいなだ氏や北杜夫氏、林タカシ氏等もそうだったと思うが、挙げて推薦していた事が思い出される。そこで、新しい精神医学が説かれたという記憶はないが、紹介によれば「独自の実存分析Existenzanalyse とその治療論としてのLogotherapie」をとなえ、新ウィーン学派と呼ばれたという。

『夜と霧』譚
 第2次大戦中のナチスの強制収容所の体験記に、何故『夜と霧』と表題されたものが多いか。政治犯の容疑者を家族ぐるみ一夜にして消し去ってしまう、ナチスの秘密指令の暗号名に由来するためであるという。
 読者として考えると何故日本では、フランスの詩人の書いた『夜と霧』ではなくてオーストリアの精神医が書いた『夜と霧』が良く読まれたのであったろうか、という疑問は残る。確かにこのフランケルの実存分析 Existentialanalysisは, 強制収容所体験を 踏まえて提唱された「精神療法理念」であり、即ち「人間存在の精神性」はつねにその欠落を補うべく努力するという理念である。この考え方は、「フロイトの精神分析を補 充しつつ止揚する一つの方向」と位置づけられたようである。
 しかし、考えて見れば精神療法というものの最終的な目標は「精神の真の意味の自由を」取り戻すことにある。精神的な自由自在性の回復が、全ての精神療法の基礎である。したがって、強制収容所体験から生まれたこの療法理論にあったはずの前提認識、即ち強制収容所認識に経験的にすぎる一面があるのは当然である。だとすれば療法としては、繰り返し行われる過程で実証性は蓄積されるであろうが、もともとの前提認識の持っている経験性は実証されない。つまりこの療法理念も「絶対体験」とするものをもとにした仮説であるに過ぎない、という性格は変わらないのである。
 そのように考えると、体験的科学よりも芸術作品による造形のほうが『夜と霧』の認識用具としてはすぐれていると言えないだろうか。それにも係わらずこの本のほうが読まれた要因には、日本人の持っている政治的特性、つまりペダンチック好み、中庸性好み、つまり政治性の欠落ということが関係しているのかもしれない。

『四十八才の抵抗』石川 達三
 この小説の主人公は、保険会社の48歳になる部次長である。保険会社というエリートサラリーマンのなかでは、平凡ではあるが部長になって55歳の定年という絵に書いたような将来の見える人生である。この頃は55歳が定年で、今日のような60歳でもないし、生命保険会社がつぶれるような事の絶対にと言っていいほどなかった時代である。むしろ、作者は典型的な安定したサラリーマンの人生に対する最後の抵抗を書くために、銀行より固くはないが銀行より安全な企業として保険会社を選んだようにさえ思えるのである。
「サラリーマン」が確固とした、ある意味で理想的な産業社会を生きる勤労者の人生として定着しつつあった時代である。50歳になれば部長となって、先の定年が見える。48歳はささやかに40歳代の可能性を感じさせる年代であるが、もやは猶予のならない年代でもある。こういう人生に反抗してみるか、このまま50歳を迎えて定年になるか。
 このような安定した生活に、不安や抵抗が芽生えるとは、かつてはもちろん無かったことである。しかし、時代がそういうものとして安定しようとすれば、当然生まれうる不安、あるいは欲望である。小説では、ゲーテの「ファウスト」をなぞって悪魔の囁きを囁く部下などが登場して興味深いが、当時30歳だった筆者として読むと、このような安定的な生活にもこのような展開があるのか。
 その方が、むしろ定型的にすぎるきらいがしたものであった。ただ、実態からすれば来るべきサラリーマン社会の不安として、読者に予感されたことは確かであったろう。この原作は直ぐ映画化もされた。作者、51歳の作品である。

『帝王の墓と民衆』三笠宮 崇仁( みかさのみや たかひと)
 三笠宮は、昭和天皇の弟、大正天皇の第四皇子である。この時、宮は41歳。30歳で終戦を迎え、それから東大で聴講生となって古代オリエント史の研究に入り、昭和30年、1950年に東京女子大の講師となっている。この著書は、むしろそのために書かれたものであったかもしれないが、読まれたのは天皇家のものが帝王を語ったのは、少なくとも戦後では始めてであったからであったろう。その意味では、きわめて興味深い著書であった。本は光文社のカッパブックスである。宮はこのあと、日本オリエント学会会長、日本リクレーション協会会長を歴任している。

『女優』森 嚇子
 これは珍しくベストセラーとなった女優森嚇子(もりかくこ)の自伝である。
 森はこの年、42歳であるが眼疾にあって失明している。当然女優も引退である。どうして実業の日本社でこの本を出すことになったのかはわからないが、出版されるまえから広告され内容は有名であったが、著者森嚇子の名前は、少なくとも20歳の我々には知らない名前に近かったのを覚えている。
 調べてみると、森は1932年跡見高等女学校を卒業すると松竹の蒲田撮影所に入社。翌年「さすらいの乙女」で主演、34年新派に転じてやがて看板女優となる。戦後48年に木の実座を結成。51年フリーで新派に参加。この間に彼女は、この道の大先輩である森律子の養女になっている(旧姓岩田) 。この養母は演劇の勉強のため渡欧もしているし、新派にも出演している。1930年には自伝『女優生活二十年』を出版しているし、養女の嚇子が失明して本書を出したこの年には、女舞を伝える桐座の名跡をおこして四世桐大内蔵を継いでいる。しかしこの本にどの様に係わったのかは不明である。
 この年、新藤兼人監督で乙羽信子、小沢栄、東野英治郎、千田是也、内藤武敏、宇野重吉、日高澄子の豪華メンバーで本書は映画化しているが、「女優」というタイトルでは本書以前は松井須磨子が主人公のものが多い。歴史的にはやはり、近代演劇の指導者にして早稲田大学教授島村抱月と当代切っての有名女優松井須磨子の恋と死は、人々の記憶からさりがたいものがあったのであろう。本書がベストセラーになっても、そのメモリアルヒストリーのランキングは変わらなかったようである。

『異性ノイローゼ』加藤正明
 この本もカッパブックスである。著者は1913年生まれの神経精神医学者。この頃は国立国府台病院の神経科医長、年43歳である。後の東京医科大教授、国立精神衛生研究所所長。最初の著書である。
 異性ノイローゼというテーマは、女性の社会進出と無関係ではあるまいが、本書が、[DSM-4,Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders,Third Edition]1980年にアメリカ精神医学会が刊行した「精神障害の診断と統計の手引き」第三版の以前に、「従来の診断分類と違って成因や理論には固執せず、純粋に症候学的な臨床症状による診断基準」にいどんでいるところがいかにも、先駆的である。そのテーマがベストセラーとなった要因の一つには違いないが、画期的な診断マニュアルとなったDSM-4刊行の前だけに著者の苦労もしのばれるというものである。

『連合艦隊の最後』伊藤 正徳
 戦後になって初めてこういう本がでたという気がした。まやかしのような辻正信の本のようなものはあったが、記録を調べてまとめるというのは本当に初めてではなかったろうか。著者の伊藤は1889年生まれのジャーナリストである。当時は既に時事新報の社長で、すでに回想の世代に入っていたのであったろう。年67歳である。「連合艦隊の最後」をテーマにした映画は、戦後幾度か作られるがこの時はまだ作られるような環境にもなっていなかったし、68年、81年に制作された映画も原作は本書ではない。

『モゴール族探検記』梅棹 忠夫
 文化人類学者、1920年生まれ、京都大学動物学科卒の36歳。この頃は、大阪市立大学の助教授。博士号をとった「動物の社会干渉についての実験的並びに理論的研究」(61)よりも5年も早い最初の著作である。モゴール族そのものは、アフガニスタンの中央高地ハザーラジャードに住む特異な民族の一つで、今なおモンゴル語を保存している民族であるが、いずれにしてもこの探検記を纏めた本著は、彼のテーマである「生態学的観点にもとづく文明の歴史的過程分析」主張の主要な基礎をなしたものである。彼はこのあと京大人文研の社会人類学講座の教授となり、国立民族学博物館の創立・館長となったのは周知の通りである。
 したがって、本著にとってむしろおどろくべきは、このような本が植民地時代の幕開けのように、ベストセラーになったということである。あたかも時代の展望を人々は、この特異なしかも学術的な探検記に感じていたのであったろう。

『飢える魂』丹羽 文雄
 明治37(1904)年生まれの52歳の小説家。この頃文芸家協会理事長。戦前からの著名な情痴作家であるが、本書は戦後になって多作された風俗物とよばれた作品のうちの代表作の一つである。『壓がらせの年齢』(47) 、『哭壁』(48)、『爬虫類』(51)、『蛇と鳩』(52)、『青麦』(53)、『包丁』(54)ときて、本書と同じ年に『菩提樹』(56)がだされているが、小説でベストセラーとなったのは本書が最初であるし、以後でもベストセラーになることはなかったから、この『飢える魂』には時代に訴えるものがあったのであったろう。
 社会的地位のある実業家の若妻とプレイボーイの青年実業家、二人の子供を抱えて生きる未亡人と病気の妻をもつ男、この二組の愛の行く末をめぐるドラマはラジオドラマにもなり、この年に日活で正続に分けて映画化もしている。

『太陽の季節』でベストセラーが100 万部を越えるという事態になって、小説あるいは文学の観念が変わりました。
 これを機に自由業としての「作家」が職業選択の一つに加わりうるようになったといっていいかも知れません。では、それまでの小説家はどのような者であったのか。30年代以降のベストセラーを紹介する上で、旧来の「作家」の基本的なスタンスを紹介しなくては今日の作家は分からない。
 そこで、職業でさえあったといえるかどうか、という時代を生きた作家を紹介することで、その暮らしぶりと精神を紹介してみたい。

 次号からは、その典型的な一人として、世に憚りながら41歳で死んだかつての著名な私小説作家「葛西善蔵」を紹介します。

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