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フ ィ リ ッ プ ・ ト ル シ エ
= 予 定 調 和 を 壊 す 者

 1ヶ月にわたるワールドカップが終わった。今大会は、日本中がおそらくは初めてワールドカップとは何かということを知った大会として日本の記憶に残るだろう。

 このエッセイでは今回のワールドカップを反芻しつつ、フットボールに接していたいという願望から始められる。

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フィリップ・トルシエ/田村 修一 『トルシエ革命』(新潮社)2001年6月刊 本体価格: \1,600
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  ジャン・フィリップ・コアント 『異端児トルシエ』(角川書店)2001年12月刊 本体価格: \1,700
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フィリップ・トルシエ/ルイ・シュナイユ 『情熱』(日本放送出版協会)2001年12月刊 本体価格: \1,400
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  『トルシエ、ニッポン。』(日本放送出版協会)2001年9月刊 本体価格: \1,600

 

 

 

 

 

 

 日本は決勝トーナメント1回戦でトルコに敗れた。先発メンバーは予選リーグとは異なる人選で、そのことについては日本中から疑問の声があがった。フィリップ・トルシエは、FWにアレックス、西澤を使い鈴木隆行と柳沢敦を使わなかった。ましてアレックスは左サイドのエキスパートであり彼がFWに入る陣形はこのチームでは未経験だ。なぜトルシエはそんなメンバーを組んだのか。よく言われるように「勝っているチームはいじるな」は勝負事の鉄則ではないか。そんな勝負のイロハをトルシエが知らないわけはないと思う。「ではなぜ」という疑問が私たちの頭から離れない。

 ここで私たちはトルシエの4年間を振り返ってみる必要があるように思う。彼の4年間は何だったのかと振り返ることで先の疑問に対する答えも浮かび上がってくる気がする。

 彼の4年間を振り返るとそこにはひとつのキーワードが現れてくる。それは「予定調和の破壊と再生」というものだ。思えば彼の4年間は日本サッカー協会やマスコミとの戦いの中にあった。釜本氏との戦いも記憶に新しいし、中田英寿との確執、中村俊輔の代表落ちに代表されるスターシステムへの反感、と振り返ると、常にそこにあったのは日本的な予定調和に対するエキセントリックなまでの憎悪であるように思える。

 あれはブルキナファソのワールドを終えた頃だろうか、中田英寿、中田英寿と迫るマスコミに対し、トルシエは「中田英寿は唯一の存在ではない。小笠原だっている!」と叫んだ。当時小笠原満男はまだ所属チームの鹿島アントラーズではレギュラーの座を確保できていなくて、有望な若手の一人ではあっても、すでにイタリア・セリエAでスターの地位を固めつつあった中田とは比肩しようもない存在であり、実際トルシエのそのコメントを紹介する新聞記事の論調は明らかに冷笑的であった。しかしこの叫びこそがトルシエの、日本的なスターシステム、言い換えれば「予定調和の世界」に対する憎悪を含んだ叫びであったと思うのだ。

 この憎悪は長く中田英寿のと確執とマスコミによって説明される事態として具現化されていったし、最終的には中村俊輔の代表落ちという、いくぶんショッキングな事態へと続いていった。

 しかしよくも悪しくもそれが彼のスタイルであった。そして、その彼のスタイルは日本のサッカー環境に向けられたものであったことを考えれば、サッカー協会、マスコミ、サポーターをひっくるめたサッカー環境自体が彼のスタイル形成のもとになっていた。したがって彼のスタイルを誰が非難できようか。日本は彼を監督として選んで代表を任せた。釜本氏との確執の際にも一般のサポーターはトルシエを支持していた。なぜか。それは彼が日本的なサッカー環境への破壊者たることで日本のサッカーを鍛えてくれることを期待していたからではないか。

 彼は予定調和の世界に安在することを激しく憎んだ。最後の最後まで競争システムが貫かれ、おかげで多くのプレイヤーが磨かれた。8年前にハンス・オフトが率いたドーハのチームの左SBに都並しかいなくて、都並が怪我をしても無理を押して出場していた頃を考えれば隔世の感があるではないか。

 成長は破壊の後にやって来る。破壊と再生を繰り返すことで日本代表は成長してきた。こんなことはエキセントリックな人間でなければできない。現在トルシエ後の監督人事の話題が出始めているが、日本人には無理だろうという意見も多い。まだまだ日本には破壊しなければならないことが多いと感じている人が多いからだ。世界水準への出会いはまだまだ多く残されている。

 さてそこでトルコ戦でのメンバー入れ替えの件に戻ろう。日本はグループリーグを1位で突破し、決勝トーナメントに進んだ。そしてそこには予定調和の世界が生まれる雰囲気があった。彼はそれを憎み、メンバーを組み替えることで再び破壊と再生に賭けた。そんなふうに思えてならない。

 果たしてそれが正しい戦術であったかどうかは甚だ疑問がある。サッカーの専門家はそのことを繰り返し指摘していい。しかしこれは果たして戦術的な選択であったのか。もしかしたら戦略的選択であったのではないか。戦術と戦略は異なる。そしてトルシエは戦術家であると同時に戦略家でなければならないことを日本のサッカー環境に強いられてきた。この点が戦術家であることに徹している韓国のフース・ヒディングとの違いだと指摘してもいいように思う。もちろん単に目の前の戦いに勝つということならば戦術家に徹した指揮官の方が適している。

 わたしの唯一の疑問は、トルシエがトルコ戦の前に「決勝トーナメントはボーナスだ」と発言したことだ。あるいは大会前に「日韓のチームが決勝トーナメントに進むことは世界のスタンダードに照らせば決していいことではない。フットボールの品位を損なう」とフランスのメディアに対して発言したという報道もあった。もちろん未確認の情報にすぎないが。しかし彼自身の中にも揺れがあったのではないかと疑問は残っている。

 いずれにせよ、戦術としてではなく戦略として彼は日本にトルコ戦の敗戦を残した。2勝1引き分けという戦績の後の最終章として。俄サポーターの狂騒から遠く離れて、日本のサッカー環境がサッカーの現実と向き合うために。わたしはそれを、彼は日本にその敗戦を「残してくれた」と表現すべきかどうか迷っている。

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