キ ム チ p r o f i l e
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話を前に進めるにあたって、中谷巌が『痛快!経済学2』に書いていることをもう少し見ておこう。中谷は、マーケットメカニズムを「経済活動という面における民主主義そのものだ」と書いているのであるが、マーケットメカニズムとマーケティングの関係をもう少しはっきりさせておく必要があるだろうから。

マーケティングがマーケット(市場)を前提としていることはその言葉の成り立ちから知ることができるが、ではマーケットとは何か?

マーケットは「市場」と訳されるのが普通ですが、これは魚市場とかフリーマーケット(ノミの市)などのような目に見える「場」ではなく、抽象的な「場」のことです。
その「場」とは一言で言うと、物やサービスを買いたいという人々と、それらを売りたいと思う人々(または思惑)が出会う「場」を指しています。

(『痛快!経済学2』、中谷巌、集英社インターナショナル、15頁)

では、そのマーケットで働いているマーケットメカニズムとは何か?

これを一言で表しますと、「マーケットメカニズムとは、労働力や資本、土地などの有限な(もしくは希少な)経済資源を使って、どのような財やサービスをそれぞれどれだけ、いかなる方法で生産し、消費者に配分するかという『資源配分』の問題を人々の自由意思(何を買い、何を売るか)に基づいて決定する民主的な仕組み」のことです。

(同、16頁)

消費者は自分の欲しいと思った物やサービス(これを「需要」という)を、自由にマーケットから買うことができる。他方、商品やサービスを提供する側(企業)は、消費者が望むものをマーケットに出して(これを「供給」という)、消費者に買ってもらう。企業は、消費者が望んでいる商品やサービスを、いかに効率的に供給できるかが勝負の分かれ目になる。そして健全なマーケットにおいては、需要側(消費者)の意向が供給側(企業)にきっちり橋渡しされ、消費者それぞれが望むものがタイミングよく、しかも安い値段で供給されることになる(はずである)。これが中谷の説明しているマーケットメカニズムである。

需要が大きい場合(多くの消費者が欲しいと思う商品やサービスの場合)価格が上昇する。供給側の企業は大きな利潤を得るだろう。そこで利潤を求めて他の企業が参入したり、生産量を増やすことによって供給量が増え、それによって次には価格が低下し、やがて均衡する。この需要と供給のバランスをとりもつのがマーケットメカニズムである。中谷は、このマーケットメカニズムが、需要側(消費者)の自由意思によって機能する(=「財布からお金を出す」という行為を通じて「1票を投じている」)民主主義的な過程であること、そしてマーケットが「健全に」機能することによって資源配分がもっとも効率的に行われるであろうことを示唆している。

マーケティングとは、このマーケットメカニズムの中で、供給側(企業)の活動をさす。企業は、より多くの需要を喚起する商品やサービスを、開発し、調達・生産し、そして需要側(消費者)へと周知することをマーケットの中で求められるのであり、マーケティングとは、マーケットに存在するはずの需要を確かなものにするべく、その需要を探ることである。この経緯を、中谷は次のように描いている。

投票される側(=企業)にとっては、常にライバルよりも多くの票を集めたいので、消費者の欲求がどの辺にあり、どのくらい強いのかという情報を誰よりも早くキャッチすることが最も大切なことになってきます。実際、その情報収集能力を競い合い、しのぎを削っているのが各企業なのです。

(同、19頁。括弧内は引用者注)

ここで情報収集能力と書かれているものこそがマーケティング能力に他ならない。 マーケティングとは、選挙に喩えるなら、 多くの票を集めるための(民の声を結集することを含めた)選挙活動であり、集票活動である。

このように「マーケットメカニズムが完全に働いている社会は、人々の活力を生むと同時に、個人個人の求めに応じた生活の豊かな多様性をもたらします。」(同49頁)しかしながら、マーケットメカニズムにまかせていればすべてがうまくいくというわけではない、ということは中谷巌も認めている。

とはいうものの、私はマーケットが完全無欠なものだとはけっして言いません。マーケットにも限界はあるのです。

(同、49頁)

中谷がここで例に挙げているのは、医療マーケットであり、日本のような国民皆保険システムの非効率性を一方で批判しつつも、他方で医療マーケットを仮に 100%マーケットメカニズムに委ねてしまった場合、「お金持ちは充実した医療を受けられるのに対し、保険に入るお金さえ事欠く人々は医療が受けられず、へたをすると『のたれ死に』しまいます」(同49頁)という。

マーケットメカニズムを 100%信奉するとこのようなことが理論上起こりうるのであり、それは倫理上の問題として、マーケットの欠陥であり、限界だと中谷も認めている。しかしながら 「経済学の知恵は、100%の市場原理主義と、貧者でも公共サービスが受けられるという平等社会との中間のどこかに、 必ず人々が暮らしやすい地点があることを教えているのです。 いわば『第三の道』があることを。」と中谷はいう。

この観点からして、「マーケットに限界はあるけれども、マーケットのよさを正確に理解したうえで、それをどのように利用すれば生活が豊かになるかを、いつも考える癖をつける」――この態度こそが、日本の将来にとってきわめて重要な意味をもつことになると私は確信しています。

(同、50頁)

資本主義社会では、 「平等」かあるいは「経済効率」か、 言葉をかえれば「分配」か「効率」かという二律背反(トレードオフ)の選択を迫られることになる。ここで中谷巌は、その解決策として、まずは「効率」を選択し、その後に「分配」を考えるべきだと主張している。少なくとも「分配」を優先する平等主義的、社会主義的、統制経済的な行き方は、「アクセルとブレーキを同時に踏んでいる」、もしくは「ブレーキを先に踏んでいる」ような間違ったやり方だという(同63頁)。

中谷がここで描き出す図式や主張が、福祉国家(とそれを導出してきたケインズ主義的経済学)の行き詰まりに対して台頭してきたネオ・リベラリズム的な言説に収まりきっていることは明らかだと思われる。行過ぎた「平等」と「分配」を一旦おいて、市場原理の「効率」に任せることによって「やる気のある者が報われる」活気ある社会を取り戻そう。とりわけ旧世代の既得権を持った者だけが潤うような「非効率」から日本の経済と社会を解放しよう。それこそが真に民主主義的な社会を作り上げる正しい処方箋であるはずだ。多少の痛みを伴おうとも、あるべき明日の姿のために、米百俵を耐え忍ぼうと。

2005年10月24日号掲載 | 

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