d e n g e i


週刊電藝(通算28号)の「詩のペデストリアン<16>」で塚本敏雄はこう書いて
いる。

  ところでぼくは今日たまたま「現代詩手帖」なる詩の専門誌を読んで
 いて思ったのだ、こんなに専門的な評論やエッセイを詩の執筆者以外で
 読もうと思う人はいないだろうなと。なぜか詩の世界では、評論も書け
 ることが一人前の詩人である資質であるというような感じもあって、ぼ
 くも含めて評論や論考を書こうとするのだが、たいていそういうエッセ
 イは専門的で、一般の読者を相手にしているとは思えない。
  詩の作品についても同様のことが言えるだろう。いったいどういう読
 者を想定して詩人は詩を書いているのか。
 (http://www.indierom.com/dengei/rensai/ped16.htm

現代詩の評論や、評論だけでなく現代詩そのものも、限られた専門的な読者に
向けて言葉を発していて、もはや一般の読者を相手にしているとは思えないと。
「詩のペデストリアン」という連載は、おそらく塚本敏雄自身にはそんな気負
った意図はないのだとしても、まさしくそうした状況への批評をなしているか
もしれない。

ところで、著書『存在論的、郵便的』で、ニューアカ時代を作った浅田彰の『構
造と力』を古びさせたといわれる東浩紀の、評論集『郵便的不安たち』(朝日
新聞社)が撃とうともくろみ、繰り返し危機感を表明しているのは、まさしく
論壇のこうした状況だ。
例えば東は「現在書かれている批評文は、かつて小林秀雄に象徴されていたよ
うな知的かつ社会的な機能を失っている」という。
文芸批評を例にとるならば、九十年代の文芸批評はアカデミズムとジャーナリ
ズムへの激しい二極化で特徴づけられているという。一方でラカン派精神分析
や脱構築からカルチュラル・スタディーズやポストコロニアルに至る様々な学
問的意匠で装飾された三十代の書き手たちがいて、主に『批評空間』や『現代
思想』によっている。
また一方では福田和也や斎藤美奈子に代表される学問的意匠に反発したジャー
ナリスティックな職業的文芸批評家が活動を始める。
東は、この二極化が相補的な役割を担うことによって、批評の全体を貧しくし
ているという。お互いがお互いの役割に自足することによって、知的緊張と社
会的緊張を繋ぐような刺激的な批評を生み出すことがなかったということだろ
う。

文芸批評についてここでいわれていることは、詩の世界について塚本が書いて
いることを後付けしていることになるだろうか。現代詩の世界は、外部から見
れば、知的ブランドとして自分たちの世界に収まりきっているように見える。
その世界をジャーナリスティックに開くような『鳩よ!』のような雑誌も存在
しないではなかったが、それがそうした役割を果たしたのかどうかはよく分か
らない。それ以前に、詩の世界は、一方で歌謡の世界に開かれていて、その意
味ではよりなだらかで広いすそ野を持っているように見えながら、それらを繋
ぐような批評は存在していないように見える。

問題は、「ポストモダン」と呼ばれる状況であると東は端的に要約している。
(もう一つ「日本的な」問題を東は指摘しているがそのことをここでは問わな
い。)ここでポストモダンと呼ばれているのは、ジャン=フランソワ・リオタ
ールが『ポストモダンの条件』でこの言葉を使った意味、すなわち「複数のモ
ードが混在し、どれもが支配的になることなく並立し続ける文化状況」のことだ。

  七〇年代以降、サブカルチャーの進展にともない価値観は急速に相対
 化され、結果として各趣味を共有する人々はきわめて閉鎖的なグループ
 を形成し(オタク化)、それらグループ間のコミュニケーションは急速
 に困難になっていった。ポストモダンの人々は共通の文化的基盤をもた
 ず、社会の全体性をイメージするのはかつてなく難しい。九〇年代には
 その過程がさらに過激化した。いまや特定のモードが文化的先端を僭称
 することはできない。

  私が「徹底化されたポストモダン」と呼ぶこの社会の細分化は、いま
 や抽象的議論ではなく、具体的事件(例えば少年犯罪)を通し頻繁に話
 題にされている。例えば宮台はそれは「成熟社会」と名づけて肯定し、
 宮崎哲弥は共同体主義者の立場からむしろその現実を否認している。
 (東浩紀「棲み分ける批評」前掲書所収)

ところで、インターネットを典型としてネットワーク社会が促しているのは、
こうした社会の細分化である。インターネットは、放送局や出版社から不特
定多数に発信される1×nのマス・コミュニケーションや、特定個人間でや
りとりされる対面の、あるいは手紙や電話のような1×1のパーソナル・コ
ミュニケーションと対比されるかたちで、不特定の個人同士の接続可能性を
確保するn×nのコミュニケーションだとされる。
東の引用で宮台と書かれている宮台真司は、「インターネットが共同体や民
族や国家の壁をブチ破って、インターナショナルでグローバルなコミュニケ
ーションを実現するというものがある。しかしこの幻想は一面的である。」
と指摘する。「実際には、コミュニケーションの透明さの増大というよりも、
むしろディスコミュニケーションこそが世界大で広がりつつもあるからだ。
要するに、「島宇宙化」、コミュニケーション・サークルの際限のない細分
化である。」(宮台真司「見当違いの倫理主義を排斥せよ──インターネッ
ト化がもたらす社会システムの危機」「へるめす」1996年9月号)
要するに、従来であれば少数者として孤立せざるを得なかったマイナーな嗜
好を持った者たちが、ネットワークを通じて結びつき、生き延びることがで
きる。その結果がもたらすのは、島宇宙に分断された社会の全体的な不透明
化であるというのが宮台のいうところである。

こうした状況を、東は「郵便的状況」と呼び、その不透明さへの不安を「郵
便的不安」と呼んでいる。「郵便的不安」への現状の処方箋はふたつ。ひと
つはニセの全体社会像、もしくは宇宙論のようなものを提示してみせること。
例えばオウム真理教のような新興宗教が行っているのがこの処方箋である。
もうひとつは、タコ壺的な島宇宙の中に「ひきこもって」自足してしまうこ
と。東が目指そうとしているのは、もちろんそのいずれでもなく、いわば郵
便的なコミュニケーションを再構築することである。それはn×n時代にお
ける文体をいかに構築するかと言い換えることもできる。

したがって、n×nの文体こそが、電藝批判がめざしている文体そのもので
あるということになるだろう。
それは、n個に分断されてn人の閉じられたサークルに通用する文体でない
ことはもちろんであり、同時に不特定多数に呼びかける1×n型の文体を再
構築することでもないことは、定義上明らかだ。
では、それはどのような文体であるのか。
東の論じるところをさらに追うことも、他の議論を参照することももはや紙
数(!)が許さない。ただいま直感的に曳かれているのは、「郵便的不安」
と呼ばれているものを追いかけること、それはつまり東が『存在論的、郵便
的』の中で「幽霊」と呼んでいるのであろうものを追いかけることである。


text/金水 正