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一連の電藝批判の中では、文章が長いということに対して批判が繰り広げられ
ているようであるが、そのことについて、異議申し上げたい。
なるほど、メールというメディア特性や、現状のインターフェイス(大抵の場
合、ブラウン管からテキストを読むという)から考えて、長文の論文や小説を
メールで配信することには無理があるという点には肯ける点もある。
だからこそ、短く有用な情報を的確に配信することこそが、メールマガジンに
期待されるべきだという意見にもなるのだろう。
しかし、その場合に、有用な情報とは何であるだろう。メールマガジンは、不
特定多数に配信されるものである。誰が読むか分からないのである。そこで、
有用という意味は、凡庸であるということに限りなく近づくことにならないか。
アクセスした者に無駄な情報を与えないためには、決まった枠組みの範囲内で、
情報を取捨選択し、アクセスする者に、そのあらかじめ決められた枠組みの提
示をこそ行わなくてはならない。
枠組みの決定と、枠組みによる情報の取捨選択。
この作業を徹底させると、アクセスする者は、あらかじめ決められた情報にだ
け、アクセスする事になるだろう。
「有用」ということの意味は、そういうことになるだろう。
短い文章が、有用であるためには、そこに与えられた枠組みこそが重要である
ことになる。

そうでない場合には、短い文章は、かえって意味をとりにくいものになる。
例えば、詩というジャンルは、短く文章を短縮することによって生み出される
多義性によってこそなりたつジャンルであるだろう。
短い文章は、文脈をとりにくいために却って意味をとりにくい、あるいは誤解
を生みやすい文章なのだ。
どこかで評論家の柄谷行人は、時間の節約のために短編小説は読まない、長編
小説を読む、と言っている。

したがって、情報を的確に伝えるためには、しかも不特定多数のものに意味を
伝えるためには、充分に長い文章が必要なのである。


text/しだたいすんき