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内声はどんな時に強く意識されるか。

バフチンは、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公についてこう語る。「〈地下室の人間〉はもっぱら自分が他人にどう思われているか、どう思われ得るかについて考え、それぞれの他者の意識、他者の自分に関する意見、自分への視点のすべてに先回りしてしまおうとしている。その告白の重要な瞬間瞬間において、彼は自分に対してなされるであろう他者の定義や評価を先取りし、その評価の意味やニュアンスを推察することに務め、自分に関してあり得べき他者の言葉を丹念に検討しようとするので、彼自身の言葉は想定される他人の言葉によって絶えず中断されてしまう。」(『ドストエフスキーの詩学』ちくま文庫P.109)

石原千秋、小森陽一らによる共著『読むための理論』(世織書房)では、「自意識」という項目で、バフチンの同じ文章を引きつつ『地下室の手記』の主人公を紹介し、それに並べて二葉亭四迷の『浮雲』を紹介している。
「この小説のアンチ・ヒーローたる内海文三もやはり官員であったが、ふとしたことから免職になり、社会的なネットワークからはずれ、地下室ならぬ2階の『小座舗』に閉じこもって、悪意に満ちた他者の声と格闘している。しかし内気で口ベタな文三は階下の世界ではそれに抗する術もなく、他者に発すべき言葉を自分に向かって発しつづけ、過剰な自意識に悩まされているのである。」(上掲書P.53)

ドストエフスキーの〈地下室の人間〉(退職した八等官)と内海文三との共通点、すなわち失職のように社会と自分とのズレが生じてしまった状況のもとで、内声は特に強く意識される。それは他者の言葉との格闘である。

ところで、バフチンにおいても、石原らの上掲書においても、上のような問題は「自意識」の問題とされている。しかし、ここでいわれているものは主人公の過剰な内声の問題なのであり、「自意識」ととらえることはその点をあいまいにぼかしてしまう。

バフチン自身がこういっている。「ドストエフスキーの主人公とは客体的な人物像ではなく、掛け値のない言葉、純粋な声である。」(ちくま文庫P.111)そして、周知のとおり、そうした複数の声がせめぎあう場としてのドストエフスキーの小説の特色を、バフチンは〈ポリフォニー〉と読んでいる。

閉じられた「自意識」の世界ではなく、複数の声がせめぎあう政治の場として「内声」の世界を開くこと。これが「内声の政治学」のモチーフである。
(1999/7/26号掲載)

               
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