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内声と独り言とは、どこかで区別をつけることができるだろうか。

いつも頭の中で声がしているわけではない。声を意識に上らせることなく、しかし何かを静かに思考していることもある。その状態から、ヴォリューム調節つまみを「大」の方にひねり、内声を意識の表面に上場してみることもできる。さらに内声のヴォリュームをあげると、考えていることを口の中でぶつぶつ呟いている、という状態になる。これが独言である。内声から独言への移行は漸近的であり、ここまでが内声、ここから先は独言、というはっきりした分岐点を設けることはできない。
周囲に他人がいるときに独り言をいう。この場合、半ば人に聞かせようとしていっている場合がある。例えば、小津安二郎監督『麦秋』(松竹大船1951)で、一人息子・二本柳寛から転勤の計画を知らされた母・杉村春子は、「気に入らないと俯いてものをいわなくなる。母さん、悪い癖だよ」とやりこめられながら、ぶつぶつと声にならない不満を呟きつづける。こうしたとき、独り言は半ば不服の意思のデモンストレーションである。そう考えていくと、独言から発声(他者への語りかけ)への移行もまた漸近的であり、はっきりとした区別はないといえる。
先に取り上げた『地下生活者の手記』、『浮雲』、『ヴァイブレータ』の場合、いずれも内声の背景にあるのは、社会的場面での発声の断念やコミュニケーションの破綻である。内声とは、その多くが断念された対話である。その限りでは、内声は政治的行動ではない。しかし、上に見るように、内声の空間は決して閉じられた「自我の球体」ではなく、風が漏れ入ってくるあばら屋のように、他者への呼びかけと対話によって成り立つ政治的空間へのある種の「開け」を保持している。
(1999/8/9号掲載)

               
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