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塚本敏雄の詩「ノイズ」(1997)にも、他者への呼びかけの断念、ディスコミュニケーションのひとつの形態としての内声が取り上げられている。

「栗鼠を飼いたい
ぼくは突然理由もなくそう思う
だが
ペットショップの扉を勢いよく開けて
そう叫ぶぼくに
店員は怪訝な顔を向け
黙って肩をすくめた

いつもぼくの上着のボケットの中にいて
ぼくの言葉に耳を傾ける存在が欲しい
君タチダッテ ソウジャナイカ
ホントウハ ソウジャナイノカ
知ラナイ顔ヲ スルナヨ
ボクハ魂ニツイテ語リタインダ
しかし誰も答えない
みんな肩をすくめるだけ
ぼくの語る言葉は少し聞き取りにくくて
ためらいがちに頷く相手の仕草には
たいてい断念の匂いがする

だけど夜更けたコンビニには
仲間からはぐれた魂の欠片が集まって
所在なげに額を突き合わせているではないか
届かない言葉がベンチの上に
遺言を残す
いたるところに君の闘いがある
もちろんぼくのもだけど

ますますぼくの言葉は聞き取りにくい
言葉というよりノイズに近い
妻は呆れて寝室に去った
コンピュータ画面に文字が現れる
「メールが2通とどいています」

ポケットの中で栗鼠を握りしめる
キキと鳴く栗鼠
危機とは何か
コンビニの駐車場のベンチには
死んだ魂の遺言が残されたままだ」

この詩の中の「夜更けたコンビニ」は、可能性としての内声の政治空間であり、「危機」とは、発話の不可能性が招き寄せる政治的危機のことをさしているのだろう。

ところで、この詩には、内声(独言)のひとつの形態である「ペットへの語りかけ」が取り上げられている。独言は、しばしばペットや人形、妻など対話不可能な他者への語りかけという形をとる。これはもちろん、宗教における「祈り」にも通じている。そこで興味深いのは、対話可能な人形として売り出された「ファービー人形」であるが、エレクトロニクスが産み出すこうした新しい内声の形態については後にまた論ずることにする。
(1999/9/6号掲載)

               
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