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ヴィゴツキーのこうした〈内言〉観の背景にあるのは、もちろんマルクスの次のような認識だろう。
「観念、表象、意識の生産はまず第一に人間の物質的活動および物質的交通のうちに、現実的生活の言語のうちに直接におりこまれている。人間の表象作用、思考作用、精神的交通はここではまだかれらの物質的行動の直接の流出としてあらわれる。」(岩波文庫『ドイツ・イデオロギー』P.31)

さて、やはり同じくマルクスのこうした認識から出発して、個体発生と系統発生を重ね合わせて考えるエンゲルスの自然弁証法を忠実に踏襲し、アウストラロピテクス以降の人類の歴史と、幼児からの個人の意識の歴史とを重ね合わせて、人間の意識と言語の発生の起源を解き明かそうとした奇書ともいえる書物が、ベトナム人哲学者チャン・デュク・タオの『言語と意識の起源』(邦訳、岩波現代選書、1979)である。
タオは、例えば狩人が標的となる動物を仲間に向かって指し示すような〈指示〉の行為を、サルと人間との分岐点となる意識の原初形態であるとしている。そして、こうした他人への指示という客観的な動きが、いわば個人の内面へと折り返されるようなかたちで、意識の主観的な営みがはじまるとしている。
「実際、身ぶりの構造がいちどできあがると、主体は、それを自分自身に適用する。いいかえれば、〈彼は、対象を自分で自分自身に対して指し示す〉。これは、子供たちがとくに興味を引かれる光景を眼にするときにみられるうごきである。たとえば、私は、ひとりぼっちで窓辺にすわって通りをながめていた一歳半の女の子を観察していた。そのとき、その子は手をあげて人差指で通りをゆびさした。その子の身ぶりはまちがいなく自分自身にしかむけられていなかった。なぜなら私は部屋の別の端にすわっていて、その子はながいこと私に背を向けたままだったから。つまりその子は、その光景を、自分で自分自身に指し示したのである。」(前掲書P.9)
(1999/11/15号掲載)

               
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