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先に、内声の空間は、外部の政治的言説の空間へのある種の「開け」を保持していると論じた。一方で、しかしながら、内声は政治的言説とはっきり区別さるべきものであると書いた。
内声と外声は違うものである。これは自明のことだ。
どんなときにそれは明らかになるか。例えば、目の前で困っている気の毒な人がいるとする。私はその人に聞こえる声で、しっかりしてください、困っているときはいつでも声をかけてください、といったことを口にして励ましつつ、心の中で「くたばっちまえよ、この爺い」と毒づくことができる。心の中で何をいったところで、私がなしつつある善行の価値は変わらない。安心である。目の前にいる女性に、私はフェミニズムに賛成です、ノック知事のセクハラは糾弾さるべきです、といったことを語りつつ、心の中で「オラオラ、気取ったことをいってないで服を脱げよ姉ちゃん」といったことを嘯くこともできる。これも聞こえる心配はないので安心である。

この安心にするどく切りこむのが、心の中で姦淫をしたとき、あなたは姦淫をしたのだ、という新約聖書のことばである。このキリストの思想は、個人の「内面」に倫理の基盤を置く近代的な倫理観、パノプティコンに常に自分の内面を監視されているような近代的自我のありかたに通じている。

少し待て。ここで立ち止まって考えよう。いま、「内面」といった。「心の中で姦淫する」といった。それは先に上げた例、心の中で気の毒な人に対して毒づく、といった行為、内声の行為と本当に同じことなのか?
いったいぜんたい、心の中で姦淫をする、というとき、お前はいったい何をしているのだ?
おいおい。そんなこと聞くのかよ。分かっているだろ? お前さんも経験のある、ああいったことやこういったこと、あれを想像したりなにを想像したり、心の中であれを揉みしだいたり、なにを吸わぶったり、そういったことだよ。本当にそういうことなのか? そうならば、それは私がいっている「内声の行為」とは異なっている。想像の中で、姉ちゃんのひざ掛けの中にこっそり手を忍びこませる。それは行為ではない。しかし、心の中で毒づいたとき、誰かが誰かを攻撃するという行為が行われたのだ。
お前、何いってんの? 頭おかしいんじゃない?

議論は混乱し紛糾し猥雑化する一方なので中断する。ここでは、パノプティコンのような視覚的監視装置を介した「内面」(パノプティコンは聞く装置ではない)と、「内声」とは異なるのではないか、という議論の方向性を示唆するに止める。

大友克洋の劇画『童夢』で、念動能力をもつ邪悪な老人チョウさんと、念動能力と読心能力を併せ持つヒロイン悦子が最初に出会う場面。「まっかなトマトになっちゃいな」と心の中でつぶやき、マンションのベランダにいる赤ちゃんを念動能力で落下させようとするチョウさんのいたずらに気づいた悦子は、子供の落下をくいとめたあと、チョウさんをたしなめてこういう。なにがトマトよ。あんなコトしたら赤ちゃんが死んじゃうでしょ。このとき、チョウさんが受けたショックとは、自分を上回る力をもつ超能力者が現れたことよりも、まず「まっかなトマト・・・」という自分の内声を聞かれたことにあるのではないか?
同じように、筒井康隆『家族八景』の読心能力をもつヒロイン七瀬は、自分をレイプしようとする男を思いとどまらせるために、「この娘は水蜜桃だ」という男の内声を捉えて、わたしは水蜜桃なんかじゃないわ、と声で答を返し、男はそのショックで発狂してしまう。

先にあげた、女性を侮蔑する言葉を、家に帰って部屋の中でひとり声に出してつぶやいたとする。これも内声の延長である。さらに、飲み屋にいって、おれはこういってやったんだよ、「オラオラ姉ちゃん服を脱げ」とな、と、気のおけない糞のように無残な飲み仲間にいったとする。これも、その女性との関係においては、当人の耳に入らないという意味で、内声の延長とみなしていい。

ここに西村某という政治家がいて、週刊プレイボーイでの対談において(対談相手は大川興行総裁の大川某だったと聞く)、国を守らないというのは妻や恋人が強姦されているのを見ても助けないのと同じだ、といい、彼に反対する女性議員に「お前が強姦されてるのをみても助けてやらん」といってやったといい、国を守るためには核保有でも国会で議論せなアカンな、と語ったと伝えられる。彼にとってこの世界は内声空間なのか?
(1999/12/27号掲載)

               
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