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高橋哲哉『戦後責任論』は、責任=responsibility(応答可能性)という語釈を軸に、他者からの呼びかけに応えることが責任を構成するという近年のデリダの議論を踏まえつつ、アジアの国々からの日本の戦後責任への問いかけにどう応えるべきか、藤岡信勝らの国を守るためなら女ぐらい犯してもかまわんやないけ、そんなこと教科書に取り上げたりするのはやめようやないか、などの議論にどう応えるかといった問題に一定の道筋をつけようとしている。しかし、実は君にとって責任の問題というのはそういうカタチであらわれるのではない。ほら、玄関のインターホンが鳴りドアを開けると山吹色のスーツの上下を着て吉崎達也が立っている。気がつくと吉崎は君のコタツの向かいにもう座っており、君は四畳半に放り出したままのエロ本をとりあえず目の届かないところにしまおうとあたふたしているところだ。用事はだいたいわかっている。吉崎は数ヶ月前にあの崇教金剛ヘケモコ教略称ヘケモコ教に帰依入信することを内外に闡明したばかりであり、世間では現在ヘケモコ教がここ数年のあいだに行った犯罪かもしれない行為を犯罪と認め教団を壊滅に追い込むべく破壊的食生活抑止特別立法・通称ヘケモコ特別法が共産党を除く与野党の賛成によって国会を通過しようとしているところなのだ。
破壊的食生活抑止特別立法・通称ヘケモコ特別法は、と吉崎はポケットから取り出したピーナッツをぽりぽり食べながらいう。憲法に保障された思想信条の自由を侵すものだ、君はそう思わないか。もちろんそのとおりだ、と君はあわてて叫ぶ。ではそれならば、と吉崎は油の染みたティッシュペーパーに包んだピーナッツを目の前に突き出しながら身を乗り出してくる。君は僕たちと行動を共にしなければならない。僕らは、この法案の国会通過を阻止すべくこの金剛果ヘケモナッツを法案廃棄の日まで日比谷公園でひたすら食べ続ける抗議の千日行を予定している。君も参加してもらえるね。
別に高橋の議論を茶化そうとしているわけではない。いいたいのはこういうことだ。小津安二郎の『東京物語』の中で、母の喪を第一に考えようとしない兄姉に憤慨する末妹の香川京子をなだめようと、義姉の原節子はいう。「お兄さまお姉さまだって、悪気があってあんなことをおっしゃってるんじゃないと思うわ。誰でも、自分の生活がいちばん大切になってくる。そういうときがあるのよ」(注:この引用は正確ではない)。「でも、お姉さま、私そんなの嫌。それではあまりに寂しすぎやしない?」(この引用も正確ではない)。「ええ、そうね。でも仕方ないのよ。そういうものらしいわ」(これも正確ではない)。他者の呼び声に応えるのが責任である。しかしその際問題になるのは、誰の声をもっとも身近なものとして聞き、どの声に真っ先に応えるかということである。ロン・ハワードの『コクーン』の老人たちは、家族たちの親身な呼びかけよりも宇宙人からの呼びかけに応えることを選んでUFOに乗りこみ宇宙へ旅立っていく。
たまたま、身近に聞こえた他者の呼びかけに応えて、私たちはその日その日の行動を選び、生きていく。しかし、それはあまりにも無定見というものではないのか? 複数の声がこだまする内声空間の中にあって、にもかかわらず私たちはひとつの立場を選び取り行動していく。それを私は主体性と呼ぶ。
(2000/1/17号掲載)

               
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