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キリスト教と同じく、仏教においても「祈る」という行為は大きな意味を持っている。例えば浄土真宗では、念仏を唱える行為が唯一の大切な行(正行)とされている。念仏とは南無阿弥陀仏という六字の名号を心のうちで声に出してつぶやき、同時にその声を自分で聞くことであるが、浄土真宗では「念仏を声に出すのは自分だが、聞く声は如来の呼びかけである」といったことがよく語られる。
「形而上学の欲望は、“自分の声を聞くこと”である。」デリダが批判した、西洋形而上学の音声=ロゴス中心主義とは、純粋な真理の自己への現前の根拠を、内声における語る声と聞く声との絶対的な近さに求めるという態度である。しかし、宗教における祈りの声は、もともと分割され他者に媒介された声である。

塩田明彦監督『月光の囁き』(1999、日活)は、普通の恋愛関係でスタートした高校生のカップルが、男の子が女の子に絶対的に服従し屈服するSMカップルに変貌していくさまを描いている。男の子は、最初のうち、女の子の脚やブルマー、靴下などにフェティッシュな愛情をもっていることを隠して、彼女と恋仲になる。恋はトントン拍子にうまくいくが、彼女とはじめて結ばれる夜、男の子は行為を途中で中断してしまう。
「腕の中で、沙月が小さく震えていた。これが僕の望んでいたことなんだ。僕はいま幸せなんだ。何度も自分に言い聞かせた。だけど、もうひとりの僕が囁いた。それは嘘だ、と。」
以後、男の子はその「もうひとりの僕」の声に忠実にしたがい(酒鬼薔薇聖徒がバモイドオキ神の声にしたがったように、アブラハムがヤハウェの声にしたがったように)、交際を続けながら彼女の服を盗み、トイレの音を録音したりする。その録音テープを彼女に聞かれてしまったことをきっかけに、二人の関係は大きく変化していく。
ここで、タイトルにある『月光の囁き』とは、誰の誰に向かっての囁きなのかということが問題になる。一見すると、女の子の名前が沙月であることからして、月は女の子で囁かれているのは男の子であるように思える。しかし、喜国雅彦の原作マンガの広告コピーには「僕を照らして。…僕は太陽(きみ)がおらんかったら生きていけん」とあり、そこからいえば月が男の子で囁かれているのは女の子ということになる。
事実、映画の二人は、どちらが動因ともいえない絡み合った心理状態で異常な関係へ突き進んでいく。その過程で、女の子は自分の中にサド的な快感を、男の子はマゾ的なそれを発見していくが、しかし実は、それはもともとそこにあったものではない。男の子はもともとは単なる脚フェチであり、女の子は普通の恋愛にあこがれる普通の女子高生だったのだ。二人の関係は、二人の「囁き」の共同作業によって新たに創造され、発見されていくのである。
ところで、この二人の関係が、世俗的な愛を超えた「純粋な愛」といったものと考えるのはバカである。映画の中で、男の子が女の子に対して行う行為はストーキングそのものであるし、SM関係に発展したあとで女の子が男の子に対して振るう暴力や命令は、よくあるドメスチック・バイオレンス(夫から妻への暴力)の裏返しである。こういったことは、そこらじゅうで起こっていることなのだ。
(2000/1/31号掲載)

               
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