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眠れない夜、心の中でつぶやき続ける内声に悩まされたころ(中学1年ごろか)、そのことに関連して思ったのは、小説の中のいわゆる心理描写というのがどれもウソくさい、ということだった。

E.M.フォースターの定義。「王が死んだ、2週間後に王妃が死んだ」というのがストーリー。「王が死んだ、悲しみのあまり2週間後に王妃が死んだ」というのがプロットだとすると、小説のプロットを成り立たせているのは悲しみという心理(内面)である。小説の心理描写は、多くは登場人物の行動を動機づけるものとして整合性をもって描かれるし、そうでない場合でも秩序だって意味の通るものとして描かれている。
しかし、現実には私たちの内面は、秩序も整合性もない内声で終始満たされている。神代辰巳の映画『青春の蹉跌』で、三輪車をこぎながら「えんやとっと、えんやとっと…」とつぶやき続ける萩原健一のように(ピアジェのいう反響言語)、私の人生というストーリーの舞台裏に回ってみても、そこにあるのは無意味なお喋りやつぶやき声だけだ。ということは、そもそも整合性のある心理をプロットとして要求する小説というものは、ウソっぱちではないのか。

その当時、そこまで考えていたかどうかはわからない。子どもが考えることだから、発想は単純だ。私は、心の中でつぶやき続けているこの声を、忠実にそのまま文字にうつしとることで、革新的な小説が創造できるのではないかと考えた。
しかし、それは実践してみると、とんでもなく難しいことが分かった。まず、心の中のお喋りのスピードにペンがついていかない。それに、すぐ分かることだが、現在たったいま心の中でつぶやいていることは、当然「書く」という意識と切り離すことができないので、それと関係なくありのままの内声をうつしとることは不可能だ。さらに、もしそれがうまくいったとしても、できあがったものはおそらく誰にとっても読むに耐えない、わけのわからないものになるだろう。根気のない中学生の私は、すぐその試みを放棄した。

また、私は「意識の流れ」と呼ばれる文学史上の一派に興味をもった。彼らが同じことを考えているのではないかと期待したから。そこで、プルースト、ジョイス、ヴァージニア・ウルフらの作品に目を通したが、それらが私の考えていたようなものでないことが分かってがっかりした。いま思うと、やはり彼らの問題意識は、当時の私と近いところにあったようにも思うが。
当時、シュールレアリズムの自動筆記を知っていれば、それにも興味をもったかもしれない。ただし、シュールレアリストたちが関心をもっていたのは無意識であるが、私はあくまで、意識の表面で起きていることに興味があったのだ。

そうこうするうちに、やがて私は、内声の問題に興味を失っていった。それらの問題は、「自意識」の問題だ、と考えたのだ。そして、大切なのは小林秀雄が言うように、「自意識という名の球体から出る」ことだ。こうして私は、文学に触れ始めた最初期のころの問題をきれいさっぱり忘れ去ってしまった。

四半世紀後、私は赤坂真理の『ヴァイブレータ』に目を見張った。子どものころの私がやろうとしてやめてしまった、それとほぼ同じことを、馬鹿正直にやってる人がいる。
(2000/3/6号掲載)

               
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