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今日の政治が直面する困難のひとつに、直接民主制への要求がある。社会というものが、自由にして責任ある主体の集合体であるなら、一人ひとりの主体の意志ができるだけ透明に政治に反映されることが善であるように思われる。しかし実際には、直接民主制は、その度合いが深まれば深まるほど、政治に困難を招き寄せる。現在論争になっているのは、吉野川可動堰など開発計画をめぐって、住民投票の結果を尊重すべきか否かといった問題である。そこで解決困難なのは、国の政策が必要とする開発計画を地域が否決してしまったらどうするかというジレンマである。これは一見、国家対地域、つまり主体としての国と主体としての地域の利害対立の問題であるように思われる。しかし、問題の根はもっと深いところにある。例えば、最近よく囁かれるネット投票による直接民主主義の可能性を考えてみよう。国民一人ひとりがコンピュータの端末をもち、ひとつひとつの法案についてそのつどネットを通じて投票をして是非を決するということは、技術的には十分可能なことだ。しかしこれは、よく言われるように大きな困難をもたらす。例えば、ネット投票の結果が、福祉を充実させるという法案を可決し、そのために増税するという法案を否決してしまえばどうなるか。政治は動きがとれなくなってしまう。そこに到来するのは、主体の喪失、主体が存在しない社会である。(もっとも、不況打開と財政再建との矛盾を整合的に解決する道を提示できない現在の自公保政権は、すでにして主体なき政治の観を呈しているが)。
こうした現代のラディカルな直接民主主義への要求に照らしてみると、これまでの代議制(議会制民主主義)とは、主体の意志の執行の途中に、部分的に王制の余韻を遺したものであるかのように見えてくる。(事実、細川氏を見れば分かるように、今日でも議員の多くは殿様=王の惰性態である)。代議制では、人は自らの主体性を、部分的に王の不透明な身体に委ねることによって、逆に主体性を得る。そのことをよしとする心性が、代議制を成り立たせてきた。しかし今日の私たちは、それに不満を禁じることができない。
そうした状況を文学に引き寄せて考えてみよう。神話や物語の世界では、王はその意志の背後に声を背負っていない。王はただ殺戮し姦淫し開墾する。王が聞くのはただ神の声であり、その神の声すら時には聞こえないことから悲劇が生まれる。では小説の世界ではどうか。「王が死んだ、悲しみのあまり王妃が死んだ」。そこでは、主人公=主体=王は声にしたがうもの、内面(心理)をもつものである。しかし、そこでの声は、単一の声であり、その下で例えばバルザックは主人公を「典型」として描くことができた。しかし今日では、内面の透明化への欲求は止むことがなく、そこで露呈してくるのは、複数の声、つまり心理とは主体を整合的な行動に駆り立てるような単一の声ではないという事実である。
近代の政治や小説は、そのめざす理想に向かって純粋になり、透明度を高めていけばいくほど、主体の喪失という困難に陥る。今日、政治が困難であるのは、小説が困難であることと同形である。
(2000/10/23号掲載)

               
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