ショートリールに明らかなように、池袋ロマンス通りが映画的な街にこそほかならないとしたら、旧川越街道にほど近い商店街もまた、小説的な舞台ということになるだろうか。もっとも、「水の環」は、小説というよりも演劇的な空間が濃厚に意識された小説だ。今藤夫妻のモノローグ空間がゆがむにつれ、読者は老夫婦とともに「装いマナー研究所」と長瀞温泉の旅館を往還し、その往還のたびに死が濃くなっていく。
――その冬、商店街の住宅、衣服や壊された家具が散乱し、どういう理由からなのか、天井も床も大量の水がしたたる一軒家で、今藤征一郎と妻・美鈴の無残な遺体が発見される。ブリーフ一枚の征一郎は内耳から大量の血を流して一階の廊下で失血死、二階寝室のベッドに横たわった美鈴もまた寝巻きの帯を解かれた姿で、折れた肋骨が肺に刺さって失血死。この惨劇から遡ること三年前の夏には、夫妻の養女・今藤すわん(当時22歳)も変質的な少年に背後から刺されて、池袋のアパートで変死をとげていた。アパートの部屋主は村上ハルチカ(当時24歳)で、事件当時は警察に拘留中だった。
成人して家を出た今藤すわんはラブホテル経営者と愛人契約を結び、自堕落な生活を送っていたが、村上ハルチカもまた「親友と母親の心中、父親の現実逃避に、世界との接点を破壊されている」(企画書より)。ケヤキが見える丘に集う今藤姓の3人の姿はあたかも絵画的な <家族> のように(征一郎のかすんだ目には)描写されるが、じつはそこに佇んでいるのは、村上ハルチカと同様の3人の他者である。すわんが聴覚を閉ざしたのは他者の中で生きていくためだろう。征一郎もまた他者の言葉を断つために三半規管に箸を突っ込み、さらにその上からガムテープで蓋をした。彼と美鈴は小説の最初から最後まで皮肉なディスコミュニケーションのうちに死んでいく。すわんとハルチカは互いに指を差し伸べたまま死ぬが、二人を引き離した少年とはいわば <純粋の悪意> と言えるが、この <悪意> は、他者の反語ではないだろうか。そして、他者は、死にとり憑かれている。
水しずくを滴らせた死者の群れ、他者を美しく際立たせる水沫。長瀞の川下りの際に今藤美鈴の周囲に立った水沫、地下水道、と物語には水のイメージが頻出する。おそらく三部作完結編にもなんらかの形で水が現れることだろう。