text/吉田直平

ヴィデオゲームを満たす大いなる退屈さは、コンピュータゲームの誕生以来、プレイヤーを偏狭な固定層に押し込めてきた。しかし今、退屈さは世界を覆いつくす。ゲームの退屈さに耐えることは、世界の退屈さに耐えることにつながるか。
p r o f i l e

 

 

「面白さ」を追求することを
退屈の排除という方法でなそうとしたとき
退屈きわまりないゲームができあがる。

 プレイの体験がストーリーの体裁をなしている『バイオハザード2』のようなアドベンチャーもの、『ゼノギアス』『ファイナルファンタジー VII』のようなRPGはもとより、『スーパーマリオ64』『クラッシュバンディクー2〜コルテックスの逆襲〜』『ボンバーマンワールド』のようなアクションであろうと、『電車でGO!』『信長の野望・将星録』のようなシミュレーションであろうが、いずれ根本的な退屈さを免れえない点では大した違いはない。いったい、ヴィデオゲームの表現技術が長足の進歩をとげたなどとどうして本気で口にしえるのか。

 退屈さとは個々のゲームのいわゆる「面白さ」とは無関係にまとわされているものであり、だから、「面 白さ」を追求することを退屈の排除という方法でなそうとしたときにこそ、退屈きわまりないゲームができあがるという逆説がある。

 たとえば、プレイの体験がストーリーという形式論的な限界に早くから意識的にならざるをえなかったアドベンチャーゲームやRPGにおいて、ゲームデザイナーたちは、おもにプレイヤーの行動を起点とするストーリーが分岐するによる複数のエンディング、複数の登場人物による複数の視点といった構成・システムを取り入れることにより、複数のプレイを誘うようになる。

 だが、この複数性こそがそもそも退屈さそのものなのであり、ストーリーが複数あることはどちらかといえばソフトとしての経済性の問題なのだ。そのプレイが、あらかじめ決められたストーリーの枠から外へ出ることがないということと、ヴィデオゲームが抱える退屈さとは無関係なのである。

 だから、ゲームを購入したユーザーにとっては、そのプレイへと駆り立てる欲望を退屈さが萎えさせることは、基本的にない。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』のプレイヤーの多くが半睡状態でクエストの大半をこなしていくのは、クリアに要する時間を惜しんでいるからばかりではなく、繰り返されるクエストがプレイへの集中を必要としないに烽ゥかわらず、それが本質的にコンピュータゲームに欠くことのできない過程であることをよく知っているからにほかならない。なんとなれば、ヴィデオゲームの楽しみも退屈さも、その反復性にあるのだから。

 ヴィデオゲームの退屈さがその反復性にあるとすれば、その反復性そのものを積極的に楽しむための装置として仮構されているのは、たとえば『R-Type III』『グラディウス』のようなシューティングゲームであろう。際限なく現れる敵を際限のない弾丸で撃ち落としつつ、否応なしにスクローリングのテンポでプレイを続けなければならないゲーム。ステージ途中でのセーブが不能で、規定数の自機が撃墜されるとまたステージの初めからプレイし直さなければならないゲーム。

 プレイヤー二人によるテニスの対戦という形で生まれたヴィデオゲームから、画面 とプレイを構成する要素としてはまったく変わらない『インベーダー』が派生していったとき(2つのパドルとボールという象徴要素から、敵味方のキャラクターとレーザー弾という象徴要素へ)ヴィデオゲームは、まず退屈さを楽しむものとしてその姿を現したと考えられる。

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