成長の目的、
習得すべき技術、
習得の練習台としての障壁。

 ところで、「ディノクライシス」「バイオハザード3」においては、難易度の重点はプレイ中盤に移動しているように見える。

 あらゆるヴィデオゲームにおいて、プレイヤーの操作の習熟がそのまま物語の進展を意味すること。物語は技術の習熟を前提としなければ進展しないこと。物語の元型は「宝探し」であったり、エディプス的なものであったり、ヴィデオゲームに特有といえるようなところはなんらありはしない。ヴィデオゲームが圧倒的な割合で採用する物語の枠組みは、成長の物語=技術習得の物語なのである。ヴィデオゲームが、姫の救出、剣と魔法とモンスターというわずかなヴォキャブラリーで成立してしまうのはこのためだ。成長の目的、習得すべき技術、習得の練習台としての障壁。

 価格的な面でも、ユーザを特定する点からも、一般 消費財とはなりえないソフトウェアとしてのヴィデオゲームは、単数のプレイによって無化されてしまうことを必ずしも望まれていない。企業行動の中にある作り手はマルチストーリー、マルチエンディング、ボーナスエクイップメント、ボーナスコスチュームといった複数のプレイを用意する。しかし、そのような複数のプレイがヴィデオゲームの <退屈さ> に何の影響ももたらさないことは、この連載の最初に記したとおりである。ヴィデオゲームの中古市場に対する問題意識が作り手とプレイヤーの間で異なるのは、その誤解による。

※ ※ ※

 前に書いたことの繰り返しから始める。

 ヴィデオゲームは、ときとして世界を眺める視線を変えてしまうことがある。

 寝ても醒めてもゲーセンでインヴェーダーゲームに興じていた学生の頃は、教室に並ぶ机の列が降りてくる異星人たちに見えたものである。スーパーファミコン版「シムシティ」に熱中したときは、街の中にぽっかり空いた駐車場や、銀行や証券会社が並ぶ駅前のビルの並びを気にしたりもした。

 バイオハザード系アドベンチャーが生んだものの一つは、恐怖のまなざしによる世界の再発見ということだろう。ビルとビルの隙間の狭い路地、帆布が被さっている得体の知れない廃材……さびれたスーパーマーケットの薄暗いトイレ個室、ロッカーの並ぶ従業員の狭い休憩室……駅の改札横にひっそりと佇むキャッシュディスペンサーの小部屋……どこへ通 じているかわからない、階段の途中の扉……。

 さて、「シェンムー 第1章 横須賀」のプレイを経て、わたしの現実は街をゆく人の佇まいに異様さを認めるようになっている。それは、リチャード・マシスンの短編の読後に残る、かつてニューロティックと呼ばれた現実遊離感と似ている。あらためて商店街を見回せば、そこには多種多様な顔の(よく見れば、多少は見知った顔も混じる)人々が、そして犬や猫が、多種多様な意思をもって、道を歩き、立ち止まり、他愛のない会話を交わし、道端の張り紙を注視したりしている。無意味に手をぶらぶらさせたり、前かがみに傘をさしたり、雑誌を抱えていたり、ひっきりなしにずり落ちるカバンのベルトを手で押さえていたり、マメでもあるのか、なぜか片脚をひきずっていたり。単にCGやモーションが美しいというだけではない、いわば世界の描写 なのである。異様なる世界の中で、なんだか青雲大志を抱くという感じの、なぜか大時代なストーリーを追っていく持続感には、身体を動かすことへの、あまりにも単純な肯定感が下地になっている。ストーリーの後半(ディスク3枚目)で飛び込むことになる、港湾作業のアルバイトの退屈さ、気づまり感には、みごとな <リアルさ> が漲っている。異化された現実を意識することから、その現実の中で生きていくことへと、「シェンムー」は青年期の始まりの、謂われのない高揚感に満ちている。

(連載中断中)

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