ガラス器のなかのほんとうの金魚はほんの少しずつ成長しているようでした。体長も心持ち長く、お腹の辺りもぷっくりと太ってきました。飼いはじめの頃は金魚が餌を食む様子がかわいらしくて余計に餌を落として水を汚してしまったりしましたが、そのうち、近所の子供に飼い方をおそわったりなどしてこつをつかみました。ひらひらと翻るたび鈍く輝く朱の色を見つめながら、ふと、子供の頃のある夏の出来事を思い出していました。
 わたしが中学になったばかりの夏に、洗足の家に長崎からいとこのコウちゃんが遊びにきました。コウちゃんはそのとき長大の医学部の五年生で、来年の卒業と国家試験へむけて忙しくなる前に今年の夏は少し遊ぶのだといって東京へ来ていました。彼は活発な明るい青年で話がとてもおもしろく、わたしは高校生の姉と小学生の弟と近所の子供といっしょに医者のたまごたちのなんとも滑稽な学生生活のどたばた話を目を輝かせながら聞いていました。そのうちコウちゃんの話は解剖実習におよび、姉は気分が悪くなって「もう、やめてちょうだいよ」といいながら席を立ってしまいましたが、子供たちはなにか面白いお化けの話でも聞くような不謹慎さで興奮するので、彼はますます調子にのって微に入り細に入り実習の様子を語りつづけました。そのうち弟が「ぼくも一学期にふなの解剖をやったよ」といいはじめたのをきっかけに彼は「よし、ではここで夏期特別講習をしよう」とたちあがって、庭の水を張った火鉢のなかに放ってあった金魚の一匹をつかまえてきました。それをみて子供たちはきゃーきゃーと騒ぎはじめ、わたしはみかねて「やめてよ、なにをするの」と制しましたが、なぜだかひどく怖い目をしたコウちゃんは体長が十センチほどの金魚を新聞紙の上にのせ、ポケットから出したアーミーナイフでその身を割きはじめたのです。わたしは彼の様子のおかしさにすぐ気が付きましたが、彼はきれいに割かれた金魚の腹を子供たちに示しながら、これが腸でこれが浮き袋で。などとなんでもないように説明しはじめたのでしばらくそのまま少し離れてみていました。わたしは、まるで精巧なガラス細工のような金魚の表皮の下に内臓というものが存在しているということが何故だかとても不思議で、金魚という生き物がそれまでなにか他の動物とは異なるものであったように感じられていた事を改めて実感してぼんやりしていました。視界からはずれた彼の声が「これが心臓でね。まだ動いてるだろう」といったあとに「きゃー」という子供の声があがって驚いてかけよると、なにかをごくりと飲みこんだコウちゃんを指差して弟が「食べた、心臓」とつぶやきました。子供たちはさすがに彼がへんだということに気が付いてあらためて戦慄してすこし遠巻きになりました。彼は何か張りつめた糸が切れたように突然ナイフを握りしめたまま嗚咽し、しまいには突っ伏して泣き始めたのでした。母が少し心配をして長崎の叔母にたずねたところでは、コウちゃんには二つ上の学年に恋人がいたのですが、彼女は卒業とともにかねてより望んでいた発展途上国などの病院を拠点として活動している医師団へ入る事を決断し、彼のもとを永久的に離れていったそうです。彼は自分の将来として思い描いていた彼女とのささやかな幸せを断念させられたことで、そのころから奇行が目立つようになり、自分は汚れている。とか、彼女のいる場所に入っていけない。などといいはじめ叔母もすこし心配していたようでした。父は、勉強のしすぎだろう。などと簡単にかたずけていましたが、わたしは失恋の痛みというものがどんなに人をうちのめすのかということをそのときはじめて肌で感じたように思いました。その後、彼は医者となり友達の紹介で知り合った女性と結婚して家庭をもちましたが、一度だけ遊びに行った彼の家に溢れていた奥さんが施したとおもわれるレースやら造花やらデコラティブな電飾などが、彼等の生活のなかのなにかを隠ぺいしようとしているかのように感じ、ふとあの時の金魚の心臓の生暖かさのなかだけに彼がいまも生きているのではないかなどと思うのでした。それからというもの金魚をみるたび、その偽りのような赤の表皮のしたにやはり小さな心臓をしっかりと有しているのだということにおもいをはせ、わたしはこの生きたぬくもりを手放してはいけないし手放したくはないのだ。と密かに確信するのでした。
 金魚さんと出会ってから、店には十日にひとりぐらいの割合で店にはみずうみを携えたひとが訪れました。彼のいったとおり、いままでのように通り過ぎていということはなく、相手もすべてを了解しているというふうにだれもがだまって蔵のなかへ入り込んできました。その度にわたしは整えたベッドのうえで弛緩した体をよこたえてすべてを忘れみずうみのなかへ手を差し入れるのでした。そのような一夜の翌日には必ず金魚さんが電話をしてきました。
「昨日はどこを泳いでいたの?」
「いわない」
「おいいなさい」
「いえないわ」
「ならいいさ」
「金魚さんは、もうきてくれないの?」
「僕は必要ないでしょう」
「あなたをまっているのに」
「うそをおっしゃい。そんなはずはないでしょう」
「意地が悪い」
「それはあなたでしょう」