「わたしが?意地が悪い?」
「そうだ。苦しめて笑っているのでしょう」
「誰を?」
「僕を」
 どうしてそういうことをいってわたしをからかうのですか。と言おうとしたのですが、そんなことを聞いてもまともに答えてはくれないのだとすぐさま思い直し口をつぐんでしまいました。少しの沈黙のあと金魚さんが口を開きました。
「まっているわけがない」
 声をつまらせているようで、よくききとれず、そのまま電話は切れてしまいました。しばらくは呆然としていましたが、なぜだか急に金魚さんというひとの輪郭がはっきりと感じられ、その姿がひどく悲しそうな表情をしているのに気付いてしまいどうしようもないせつなさがこみあげてました。苦しいのならなぜ会いにきてくれないのでしょう。最初にみずうみにひきずりこんだのはあなたなのに。なぜ最後までひきよせて息の根をとめてくださらないのかと、聞けば良かった。しばらくしてからそう気が付きました。そういう疑問をもつだけで不思議と気持ちが落ち着きました。もてあましはじめた苦しみを彼の行動の不可解さに転嫁することで楽となるのでしょうか。
「少しお疲れなのではないですか?」
 いつものように淡々とレジを打っていたわたしは、はっとして顔をあげました。必要な事以外のことを話しかけられたのはそれがはじめてだったからです。ふいをつかれたために店主であることを忘れて客に対してぶしつけに顔を歪めてしまったような気がしたので、それをごまかすためにそのときはじめて客と素直に話をしてしまいました。
「おわかりになりますか?」
「ええ。開店当初からきていますからね」
「存じておりますわ」
 店ではひとをあまり凝視しないように気をつけていたのですが、少し気持ちがゆるんでしまったのかその落ち着いた風情の中年の男性客を前にしてじっとその背景を見つめてしまいました。山深い杉の群生。まっすぐにのびた幹の木肌の荒々しさ。しいていえばあたたかな父性。この風景をどこかでみたおぼえがありました。大叔父と同じだったのです。しかし大叔父の背後の林はなぜだか下半分が燃えているように赤くゆらめいておりその色がなんとも恐ろしく、それをはじめて認識たときにはぞっとしました。わたしは少女時代のように大叔父になつくことは少なくなり、世の中というものがわかる年頃となってすこしずつ大叔父の醜聞も耳に入ってくるようになった頃でした。大叔父の過去。つまり彼が彼の地でどんなことをして事業を拡大していったのかということ、大叔父の背景の赤い大地は彼が犠牲を強いていったなにかであることは容易に想像できました。ときおりみせる鉛色の目の光のなかに不徳の富を得た者のもつ業火のようなものを感じずにはいられませんでしたが、死が近づいてくるとともにその赤色の大地に苦しめられている彼をみたことで、哀れみとともに肉親としての愛情のを呼び戻す事が出来て安堵したものです。一度は敬愛するものを世にも醜い怪物のように感じた苦々しさからわたしはこの不思議な能力をのろわずにいられませんでした。
 その客の大地の色まではよく見えませんでした。少し興味をそそられはしましたがそこまで凝視してしまうのはさらにぶしつけであろうとおもい、あとはさらりとご挨拶をして客を見送り店を閉めるつもりでおりました。
「またいらしてください。おやすみなさいませ」
「わたしのことは、招待してくださらないのかな」
 千分の一秒にも満たない一瞬にわたしはそのひとの背景の林のあいだからわずかにのぞく浅葱色をとらえ凍り付きました。湖面だろうか。なのに、なにも感じる事ができないのです。「アナタハミズウミノヒトデショウカチガウノデシタラナゼソレヲゴゾンジナノデスカ」わたしはやっとの思いでそれだけの言葉をつぶやきましたが相手からの返事はありませんでした。確かめなければ。何故か突如そのような思いにとらわれたわたしは、その方が恐ろしくて仕方がないのに驚くほど完璧にほほえみかけていいました。
「もちろん、お待ち申し上げていますわ」