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 古い家では、まったく何もない家のほうが珍しい。夏の街路のアスファルトの逃げ水。冬の小さなつむじ風。現象自体がそこにあるにも関わらず、人が何気なく見過ごしているもの。たとえ人の世に属さない、人智のおよばぬ 現象がそこに存在していても、大抵の人の気にとまらぬまま、それらはあちこちに吹き溜まり、よどんでいる。古い家に憑く <なにものか> は、気のせいで済ましても大過ないものが多い。そのくらいありふれているのである。だから、たしかにこの家には <なにか> はあるようだが、しかしすずねにとってはあまり関係ないだろう――要は、そう思った。

   段ボール箱はまだ残っていたが、一段落して、ようやく人の住む部屋のたたずまいになったころには、夜九時を回っていた。
 すずねは、箱からデザイナーのロゴ入りの黒いトレーナーを取り出して、よっとばかりに着込むと、
「ありがと。助かった。ということでお礼に夕ご飯にいたしましょ」
 とおどけて言い、二人はふたたびトラックに乗りこむと、中野通りをJRの駅のほうへ向かった。
 駅前飲食街の焼鳥屋の小さな卓。
「わたしはビール、カナ君はウーロン茶ね」すずねは、要を見つめてにっこり笑った。
 盛大に串の並んだ大皿を前に、要はやれやれとため息をついた。
「まったく、あいつ、なんで先に帰っちゃうんだよ」
 

「私が言ったの。引っ越し先は一階だから二人で大丈夫って」
「なんで、そんなこと言ったのさ」と、要。
「だって、カナ君と二人っきりになりたかったから」すずねは下を向いて、一瞬、間をおいたかと思うと、「なあんてね。ほんとはね、下手に他人に入ってほしくなかったの」と妙なことを言う。
「カナ君さ……気づいた? あそこ、ちょっとわけありなのよね」
 すずねは両手を胸の前でひらひらさせた。
「わけありって、高遠、おまえ、知ってたの」
「うーん、やっぱりカナ君、気づいたのね」すずねは満足そうに、「あのね、語学のクラスで一緒の生田目さん、知ってたっけ?」
「いや」要は首をふる。
「私もすごく親しいってわけじゃないんだけど、まあ、知り合いっていうか。あそこ、彼女が住んでたのね。それで話を聞くと、何か出るっていうんで、丸一か月もいられなくて、それで私、借りることにしたんだけど」
「それって好奇心なの? 危ないと思うよ、おれ」
 要は真顔で言った。いやな予感が的中したのである。
「カナ君、馬鹿らしいって笑わないのよね。前からそうなのよね。だれかがそんな話すると、普通、好奇心丸出しで、そうそう、あるよねって金縛りの話なんか始めたりするとか、そんなことは絶対ありえないって断言するとか、大抵の人はそうなんだけど、カナ君って、否定もしなければ中学生みたいなことも言わないし、もしかしてこの人わかってるって感じ」
「そういう高遠は、なんでまた、そんなところに引っ越すわけ?」
「すてきな部屋だし、なんとなく御祓いすればいいかなって」
 要は、へっ、と笑い、「それこそ、馬鹿なこと言ってる」
「あのね、ここだけの話だけどね――」
 すずねは、声をひそめて語りだした。

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