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    text/税所たしぎ

 

 

 

 

 その城下町に古くからある私立の小学校でわたしたちは知り合った。公務員の両親は教育熱心というよりは半分虚栄心からわたしをその学校に入れた。幼稚園から女子大までエスカレータ式に進学できて、旧家のお嬢様や新興の財産家の子女がけっこう多く通っていて、校舎がロマンティックで制服がかわいいというのがとりえの学校だった。
 わたしはトップの成績で毎年首席表彰を受け、中学三年のときには学校の大学進学成績アップのための特待生の話もあったが、そのままどちらを向いても知った顔のぬるま湯のような学校生活を続けることに耐えられず、外部の公立進学校を受験し合格した。外部の高校に進むと決めたとき、あの人は寂しいと泣いてくれた。そして卒業のときにはときどき会ってねと懇願した。
 九年間の学校でのつきあいで、お互いに親友よねと言い合い無条件にそう思っていたのは小学校三、四年のころまでで、その後は何となくあの人がわたしの真似してあとついて回るのがうっとうしいという思いと、それでもわたしが一番の友達と臆面もなく言ってくるのが愛しいという気持ちの間をゆれ動いていた。ほとんどの同級生たちは二人で一組のわたしたちを何の疑問も持たず受け入れていたし、だいいち皆そういう親友二人組で行動するのが普通だった。思春期になって知性派を気取る友人の中には先ほどのような苦言を呈すものもいたが、学校全体がけだるく鷹揚な気分に満ちていて、友人関係でそうそう波風の立つようなことはなかった。意地悪で攻撃的な気分など教え込まれた上品な笑顔の「ごきげんよう」で結局のところそがれてしまうのだった。
 そして学校で会うこともなくなったので、わたしが初めてあの人の家を訪れたのは高校生になってからだ。話には聞いていたものの、武家屋敷がほとんどそのままの区割りで残っている地区にあるあの人の家は数寄屋造の平屋と増築された洋館との折衷建築で、それまで見たこともないくらい立派な屋敷だった。廊下は複雑にどこまでも続いていたし、広大な庭には住宅地図にちゃんと池として載るぐらいの池があった。蔵が三つ並んで建っていることも驚きだったし、家事手伝いの家政婦さんだけではなくて家向きの仕事をする男の使用人がいるということにもびっくりした。
 そのわりに、というか広さは二十畳ぐらいあったのかもしれないが、あの人の部屋というのは、豪邸訪問の感動が一気にさめてしまうほど凡庸だった。代代の半端家具といったおもむきの箪笥や机は重苦しかったし、ジュニア向けの二段ベッドの片割れやビニルクローゼットといった団地住まいのような家具は明らかに浮いていたし、床の絨毯はそのころは知らなかったがたぶん段通の高級品だったのだろうが、十代の娘が素敵と思うような色柄ではなくて部屋を一段と暗くしていた。二人とも好きだった英国のロックグループのポスターやわたしやクラスメートとの写真、テニスラケット、パンダのぬいぐるみ、有田焼の花瓶、クマ柄のカーテン、歯科検診の表彰状。
 もっと素敵にしましょうよと、あの人が実家にいる間は二人でたびたび模様替えを試みたが、とうとうあの部屋の雰囲気は変わらなかった。実質的には花嫁修行時代ともいうべき大学時代の最後のころには、どっさり買い込んだ靴や服の箱が積み重ねられ、ファッション雑誌があちこちに山をつくっていて、もう何が何やらわからないほどになってしまっていた。