実際、眼に見える恐ろしいものは何も見なかったし、恐ろしい何ものにも指は触れなかったのだと彼女はいう。

「どれもこれもあたしの夢のなかで起こり、終わったのよ──といってしまうと、でも、蝋のように白く、暗闇のなかに横たわったまま動かなかったあの躯、間違いなくすぐ傍に感じられただれかの気配、そういったものもすべて忘却してしまうことになるのね。それによって惹き起こされた、自らの感覚に対する不信のために、いまだに根づよく残っている、空間の広さにまつわる認識能力の欠如、つまり実際よりもずっと広く、急激に伸びあがるような、何もない空間を感じるんだけど。もっとも、 <見なかった> だの <聞かなかった> だのというのは、何々を除いて、という但書をあらかじめ約束されているのかもしれないけれど」

 レンジにかけられた青緑色のポットの細い口から一瞬薄い湯気がたち、またすぐ消える間、僕は椅子に座ったまま両手の指先でコーヒーフィルターをいじりまわしている。それはまず裏返しにされ、三角形の頂点からくるくると丸められ、緩められた底辺はぐにゃりとして、いびるな円筒となる。僕はポットの水が少なすぎたのではないかと懸念している。コーヒーの粉が残り少ないことが数日前からずっと気になっていながら、100メートル離れた5号棟の一階にあるスーパー便利屋に行くたびに、そんなことは何もかも忘れてしまい、井村屋みるくまんじゅう、スライスド焼豚、30倍になる怪獣、ピン=ステレオミニ変換ジャック、オカモトのコンドームなどを買ってしまう僕に、僕も彼女も彼も絶望気味だ。コーヒー豆は彼女の好みで深煎りのものを使っているが、もっとも、計量スプーン数杯の粉が既にきっかり一週間残ったままであることからもわかるとおり、彼女はさしてコーヒーが好きなわけでもよく飲むわけでもない。彼女はいつも数袋のスウィートン・ロウをカップに投入するし、それだけでなく、夜中に蜂蜜を舐めている彼女を、僕は発見する。バケネコ!と思わず罵ると、彼女はあごの下まで垂らした舌を赤く光らせてちらりと視線を投げ、てのひらにためた黄金色の透きとおる液体にまた唇をひたす。こすりあわされる二枚の唇。細長い糸をひいて指の間から零れる蜂蜜。下へ下へと零れていく蜂蜜の細長い糸の光のみが、テーブルと食器棚の間の暗がりにいつまでもとどまっている。今も、まだ。その甘い甘い広口壜は、テーブルの上に置かれた透明なプラスティック製のドーム型調味料ボックスに納まっている。そこには蜂蜜、ミント、バジル、五香粉、ウスタ・ソース、セロリソルト、醤油、スウィートン・ロウ、食卓塩、チリペッパーの壜がぎっちりと並んでいる。

 

 僕と、5号棟の住民映画室で、彼女は『X線の目を持つ男』を観た。強力な視線をそなえたレイ・ミランド(スロットマシンの内部、裏返されたカード、女友達のイヴニングドレスが透過されてしまう)が、自らの眼を抉り出すことになる、我慢のならない状況に追い込まれていく映画だった。僕と、見え過ぎるために逆に見えなくなってしまうことがあることを、彼女は学ぶ。  

2006年12月15日号掲載