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その1 ノース・サイド編へ

 ニューヨークの世界貿易センタービルに2機の旅客機が突っ込んでから早やひと月以上過ぎたある晴れた秋の日、横浜トリエンナーレ第二弾の周遊に出かけた。今回は先日のパシフィコ会場と運河を挟んだ対岸のエリア、赤レンガ倉庫とその周辺を見て回る。

 赤レンガの建物の中に入るやいなや、さっそく書き留めておきたい些事に出くわす。というのも、チケットを見せて会場に入ろうとした私の目の前に、どこかでよく見る顔の背のデカイ背広姿の親父が立っているのである。よく見ると(いや、そんなによく見なくとも、どう見ても)石原慎太郎であった。氏の後ろにはさらに一回り背のデカイ黒スーツの男がピッタリと付き従っていた。私は、かの税金無駄 食いの代表格たる東京都現代美術館をいつ潰してやろうかと舌なめずりしている男が、国内初の政府直轄の国際現代美術展を観ながらどんな感想を漏らすか――と野次馬的な好奇心に駆られて、しばらく氏のすぐ後ろを付いて回ってやろうと決めた。ところが氏は、会場に入るや、平日にもかかわらずかなり混雑した狭い場内の人込みを驚くべきスピードで掻き分けて先へ先へと急ぐのである。各展示に注がれる視線は、ものの数秒もなかっただろう。あれでは、特に映像作品の多い赤レンガの会場では、「横トリに行った」ことにはなっても作品を鑑賞したことにはとてもならない。3、4ヶ所のブースまで付き合ったところで、時間が無駄 なので、もう一度最初の場所に引き返すことにした。おそらく氏はあんな調子で会場を通 過しただけで「俺も行った」と吹聴し、帰りの黒塗りの車中で御付の者から聞いた説明をダシに、MXテレビかなんかの中で得意げに感想を披露するのだろう。あるいは、「俺も横トリに行ったりしてそれなりに現代美術を観ているが、やっぱりあんなものはつまらない」とかなんとか言って、都現美を潰すダシにするのかもしれない。

 展観早々のちょっとした些事についてさらっと書き留めておこうと思っただけなのに、思いの外スペースをとってしまった。だが、それには相応の理由がないこともない。というのも、慎太郎じゃないが(いやいや慎太郎がそう言うかどうか勝手に決め付けちゃ悪いけど)、私もまた、今回はあんまり面 白くなかったからである。つまり早い話、書くことがあまりないのだ。――その原因は何か。おそらくその大きな一つが、(またしても)慎太郎が、「これじゃ観たことにならねえや」と本人が帰りに呟いたかどうかは分からないが、多分そんな気分にさせられたであろうところの、先にも触れた映像作品の異常な多さに起因するだろう。その映像作品には二つのタイプがある。ひとつは、あらかじめ作品として展示するために制作された映像。もうひとつは、会期中に催されたパフォーマンスの記録だ。

 前者については、「映像をジックリ味わえば充分楽しめるのだが、それをわざわざ『現代美術』的なインスタレーションの形式にはめこもうとするあまり、逆に作品を充分鑑賞出来なくしているように思えてならない」(「自閉するグローバリズム」『芸術新潮』2001年11月号)という藤田一人の指摘がズバリ言い得ている。たとえば先のパシフィコ会場でのピピロッテイ・リストの作品などは、単に映像だけがあるのではなく、空間を埋めるレースと映像との絡み合いが意味を持っていた。だが、赤レンガ会場にある映像作品は、単なる真っ暗な空間の奥に照射されるものやあるいはソファに座ってヘッドフォンをつけてテレビ画面 を見せられるものや、要するに、なぜ現代美術の展覧会場でそれを見せなければならないのか、その根拠が希薄なものが多いのである。それなら、きちんと映写 ホールを設けて、プログラムもきちんと決めて、その種の作品を一つ一つ丁寧に見せていく方が遥かに観客にとっても作家にとっても親切なのではないか?


束芋《日本の通勤快速》

 その意味で、観客が連動する前後の映像に挟まれて擬似的な車内空間を体験させられる束芋(日本)の《にっぽんの通 勤快速》は、この会場の中にあって特筆すべき一点だった。

 あとの作品の大半は、慎太郎ならずとも時間的制約を抱えた中での鑑賞状況のもとで、充分に作品と対峙できないことのフラストレーションが溜まるばかりだ。そしてそのフラストレーションは、言うまでもなくもう一つのタイプであるパフォーマンスの記録映像にも当てはまる。ああいう映像は、いつも思うことだが、無論記録としての意義は認めるとしても、やはり、現にその場に立ち会えなかったことの悔しさの方が先にたつのである。

 そんな不満の溜まる一方の展観の中で、映像以外のインスタレーション作品についても、果 たしてこれは会期も終わりに近づきダレてきているのだろうか・・・、なんとなく緊張感がないというか、どのブースも空気が薄いというか・・・、監視員のおねえさんたちのやつれた表情ばかりがやけに目立つのであった。そのやつれたおねえさんたちと一緒に作品もくたびれているような感じ。

 というわけで、ほとんど記憶に残らない鑑賞が続く今回の横トリ周遊の中にあっては、結局のところ、なぜか悔しいけれども、屋外展示の草間彌生とオノ・ヨーコの作品のシンプルな力強さがやけに目立っていたと言える。


草間彌生《ナルシス・シー》

 とはいえ、草間の運河に浮かぶ無数のシルバー・ボール《ナルシス・シー》は、雑誌などで見たイメージに比べると、ちょっとトーン・ダウンだ。「なんだ、こんなにちっぽけな空間なんだ」という印象。せめてこの十倍ぐらいのスペースがシルバー・ボールで埋め尽くされていたら、遥かに作者の意図するものに近づいただろう。あの草間のいつもの無限増殖する自意識のゾゾゾッとした感じが、だいぶおとなしげだ。

 しかし、陽が落ち始めて、MMのムードがそれらしくなってくると、ちょっとまた印象が違ってくる。それは、昼間のざわついた空気の中では聴き取りにくい「音」の発見による。日が暮れかける空のもとで微動する銀色の球たちをじっとみつめていると、シャリシャリ・・・あるいはサワサワ・・・という球と球が擦れ合ってたてる微かな微かな音が、「物質の囁きども」のように聴こえてくる。果 たして、草間はこの音を計算していたのだろうか。もっともシンプルな自然そのものである風が生む運河の水面 のうねりと、もっともシンプルな人工的物質そのものである銀色の球体との無限の交響が、今までに観た草間の作品にある息苦しいまでの強迫観念に閉じ込められた世界とは異質な、前回の島袋の作品にも通 じるような「世界に開かれてある形」を暗示しているようだ。


オノ・ヨーコ《貨物車》

 一方のオノ・ヨーコの作品《貨物車》も、やはり日が暮れてから観るべきものだろう。慎太郎はちゃんと暗くなってから観たのだろうか。あの時間にあのスピードで会場を通 り抜けて行ったんだから、多分観てないだろうが。貨物車に穿たれた無数の弾痕の穴から洩れ出る光。そして、貨車の中心から夜空に垂直に昇るサーチライト。貨車の中からは幽玄なイメージの音楽が流れている(昼間は鳥の囀りだった)。

 まあ、このサウス・サイド界隈にあって、これほど「カッコイイ」作品はないだろう。しかもそのカッコよさを、「さあ、どうだ!」と、大股開きに見せ付けている感じ。そんな押し付けがましさがオノ・ヨーコらしく鼻につくとはいえ、それでも、このカッコよさはなかなか否定できるものではない。しかも、そのカッコよさが「現代社会の悲劇と不正を告発し、かつ癒す」という作者自身の語るメッセージと分かりやす過ぎるほどピッタリと一致している。普通 、そういうものって軽々しくなりがちだろうと思うのに、ところがこの作品は、決してそうとはいえない。やっぱりカッコイイし、そして充分重たく、他を圧倒する存在感を主張している。この辺がジョン・レノンをさえ飲み込んだ彼女の凄い(怖い?)ところに繋がるのだろうか。この作品の前には、展覧会が閉館時間を過ぎた後も、若者たちの姿が絶え間なくあった。彼ら彼女らがオノ・ヨーコのこの作品を通 して現代美術の敷居に近づくとしたら、それはそれでいいのかもしれない、なぁんて爺臭いことをふと思ったりして。

 展観後、同行者と、運河の向こうにサウス・・サイドを一望できるランドマークタワーのバーの窓辺に陣取って、ぼんやりと運河の先を眺めていたら、同行者がこう言った。
「現代美術ってお金がかかるね」

 思えば、草間彌生の《ナルシス・シー》にしても、あの銀色の球体を十倍のスケールにするためには、物凄い費用がかかるのだろう。オノ・ヨーコの作品も、金がなきゃできないだろう。ステラークのボディ&マシーン《エグゾスケルトン》なんて、あのマシーンを作るのにそれこそどれだけの資金がかかることか。椿昇+室井尚の飛蝗だって、結局資金難が展示の破綻を招いたようなものだ。

 しかし勿論、極めて低コストの作品だってたくさんある。前回のパシフィコ会場には、そういうものが決して少なくなかった。ヲダ・マサノリのジャンク・アート然り、会田誠の「荒川河川敷のホームレス“ヨシオさん”の遺作」然り、アデル・アブデスメットの「アデルは辞退した」然り、そして究極はマリア・アイヒホルンのはっきり言ってあまり意図がよく分からなかった「福岡銀行に金を振り込め」とかいうチラシだけが置かれた作品(?)だった。

 同行者の言葉は、今日のサウス・サイド周遊に限ってのものと言えるだろう。確かに、この赤レンガ倉庫とその周辺の作品には、どうも特にその印象が強い。私は、その言葉を受けて、こう言った。

「結局、美術は物質なんだよ。物質力。そういう意味では、金も政治も物質力だと言える。現代の美術は、その種の物質力を必要としなければ成り立たない作品がきっと多いんだよ」

 そんな会話のやり取りの後、ふとサウス・サイドの上空を見上げると、嘘のように真ん丸いお月様が、「私も物質です」とでも無表情なまま言いたげに、美しく輝いていた。今日見たなかで、それは、もっとも美しい物質だった。

 

「横浜トリエンナーレ2001 メガ・ウェイブ――新たな統合に向けて」

2001年9月2日〜11月11日
会場:パシフィコ横浜展示ホールC・D
赤レンガ1号倉庫
まちづくりギャラリー
みなとみらいギャラリー
横浜開港資料館
神奈川県民ホールギャラリー(8/25〜9/15)
横浜市開港記念館(8/29〜9/9)
その他周辺屋外設置

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