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塚本敏雄
執筆者紹介

 

 

 ここには

 あらゆるバイアスを乗り越えて

 一直線に対象へ届く眼差しがある。

 その眼差しは

 子供たちの姿や朝の光景や、

 あらゆるものをとらえて、

 そこから美しくも

 張りつめた詩を掬い出す。

 

 


小泉周二詩集『放課後』
((株)いしずえ刊)
1300円(税別)

 小泉周二氏の詩集『放課後』が上梓された。

 小泉氏は、一九五〇年生まれ。これまでにも少年誌の分野で活躍し、日本童謡賞や三越左千夫賞を受賞したり、詩が小学校の教科書に採択されたり、NHK全国音楽コンクール課題曲の詩になったりしている。氏は十五歳の時に先天性・進行性の難病「網膜色素変性症」の診断を受け、現在はほとんど視力を失っていると略歴にもある。現在は小学校・中学校で教鞭をとっている。以上が略歴の紹介。

 今回の詩集は、二部構成となっていて、第一部が一九八六年に刊行された詩集『放課後』を再構成したもの、第二部はそれ以後の詩から自選された詩、というふうになっている。

 実はぼくは「少年詩」という言葉を小泉氏からはじめて教わった。今年の六月に出た『ポエマホリックカフェ2000』に小泉氏の略歴を載せようとして「児童詩」と書いたら、「児童詩」とは子供が書いた詩を指し、大人が書いた子供にも分かる詩はそれとは区別 して「少年詩」というのだと教示いただいたのだ。長年詩の世界に関わっていてもそんなことは知らなかった。何しろこちらは現代詩畑。同じ詩でも畑が違うと、こんなことも知らないのだなと感じた次第。

 そう、小泉氏の書く詩は「少年詩」なのだ。だから難しい言葉もイメージも使わない。だがそこには確実に「詩」が存在する。この詩集の第一部は、彼が教師として子供たちと接する中から生まれてきた詩が多く収録されているが、その白眉はこんな詩。

きみがころんだ時


きみがころんだ時
だれも笑わなかった
みんなため息をついたんだ

きみがころんだ時
だれもばかにしなかった
はげましの声をかけたんだ

それでもきみはおこった
せいいっぱいどなった
そして涙をこらえていた

 ここで呼びかけられている「きみ」がどんな少年(少女)なのかは分からない。「みんなため息をついた」とあるから、ちょっと変わった子なのかも知れないし、あるいは障害があるのかも知れない。しかしそれは分からなくてもかまわない。大事なことは、「それでもきみはおこった/せいいっぱいどなった/そして涙をこらえていた」というところだ。みんなが励ましの声をかけたのに彼(女)は怒った。彼(女)は何に怒っているのか。何にどなっているのか。そしてその怒りを体の中に詰め込んで精一杯涙をこらえている。何一つ明らかにはされていないのもかかわらず、不思議と心に沁みる詩だと思う。

 教師として子供たちのすぐそばにいるからと言って、子供たちの姿が見えるとは限らない。教師自身が様々な価値観にとらわれ、あらかじめ決められた価値観の中で子供たちを見てしまう、ということは往々にしてあることだから。

そんなとき、右のような情景を掬いだして揺るぎない言葉に定着するにはいかほどの眼力が必要とされるか。ぼくたちが詩に心を動かされるのはそうした眼力が言葉の裏に存在しているからに違いあるまい。

 第二部からは「朝の歌」を引用しよう。昨年小泉氏がポエマホリックカフェで読んだ時のことをぼくは覚えている。とてもいい詩だと思った。

朝の歌

おはよう まつ毛
おはよう あくび
おはよう 手のひら
おはよう からだ
きょう また ぼくは 生まれた

おはよう タオル
おはよう じゃぐち
おはよう 水おと
おはよう こころ
きょう また ぼくは 生まれた

おはよう ひかり
おはよう ことり
おはよう みどり
おはよう みんな
きょう また ぼくは 生まれた

 これを平易な変哲もない詩だと読んではいけないと思う。ある禅師は言う、「私は毎日生まれたい」と。日常を生きるということは、ぼくたちの認識を慣れさせ、鈍化させる。その鈍化は日常生活を送るうえで必要なことでもあろうけれど、実は生きるということはすさまじく鮮やかな経験であって、時折ぼくたちはそうした瞬間にふれることがあるだろう。あるエッセイストが病気で死を宣告されたあと、それまで何でもなかった風景がきれいに見えてきれいに見えて仕方がないというエピソードを書いていたのを思い出す。

 朝は気持ちがいい。陽光がきらきらしてきれいだ。それは何故か。それはぼくたちが生まれたての目をしているからだ。詩人はそのことが嬉しくてたまらないのだ。だから目にするもの全てに朝のあいさつをして歩く。その詩人の驚きと喜びにぼくたちは心を動かされる。

 ここにはあらゆるバイアスを乗り越えて一直線に対象へ届く眼差しがある。ここでは二篇しか紹介しなかったが、その眼差しは子供たちの姿や朝の光景や、あらゆるものをとらえて、そこから美しくも張りつめた詩を掬い出す。

 ぼくはいま、彼が視力を失った詩人であることをほとんど忘れて彼の眼差しの透徹ぶりについて語っている。そのことをここに至って思い出し、実に不思議な感じがしている。

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