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この詩集をていねいに読んでいくと分かるのだが、実は直線的な時系軸をとってはいないけれど、この詩集は戦前戦中から戦後へと続く時代のクロニクルとなっている。

text/塚本敏雄 執筆者紹介

 様々なイメジが錯綜しながら、物語を作り上げ、そして少しずつその物語をずらしていく。この詩集は <葡> をめぐる物語であると同時に、イメジの断片を多用することでその解体をも射程に入れることに成功している。 ともかくも実際に詩集を読んでいくことから始めよう。 <母> をめぐる詩集の第一行は、まずこうである。

 水引が血をふきあげる
 寸前の 夏のおわりは余熱にうなされ
 灼ける咽喉にいく筋にも
 点点
 魂の形に細く
 しなだれる身体がほんのりと色づく

 水引とは、祝い事のイメジ。後を読んでいくと、それは婚姻のイメジであることが分かるのだが、それが血をふきあげるとなるとこれは <初夜> のイメジではないか。この詩集においては、母の物語はこのようにして、性的なイメジをいつも引きずりつつ織られていくことになるだろう。それはいったい何を意味することになるのか。そのことは後で十分に考えなくてはならないが、ここではまず第一篇の最終行を見ておくことにしよう。

  <母> の花弁が傾く

 第一篇からして母は、 <葡> として語られている。つまり実際の母の物語であると同時に、ここで語られているのは無数の母の物語なのだ。このことは最初から意識しておかなければならない。

 この詩集をていねいに読んでいくと分かるのだが、実は直線的な時系軸をとってはいないけれど、この詩集は戦前戦中から戦後へと続く時代のクロニクルとなっている。一篇一篇題名を付さず( )付きの仮題のような形で表題を付けながら、細心の注意を払いつつ。だがそうした細心の注意に逆らってでも、ここで一つの虚構が浮上するのを見ておこうと思う。

 詩人はこう書く。 <時代の性欲に/満州が陰毛を茂らせていた幻の> 。満州とは馬賊などのステレオタイプのイメジによって語られることが多いように、草原のイメジを喚起するだろう。ここで草原のイメジと、母の陰毛あるいは恥丘のイメジが重なる。時代の性欲とは人を戦争へと駆り立てていったエネルギーのことであるわけだから、その性欲=戦争が満州を陵辱したことになるが、満州の草原と母の陰毛のイメジが重なる時、陵辱されたのは満州ではなく、<母> だったのではないかという思いがよぎっていく。

 もちろん詩人はそこまで語っているわけでない。そこまで語るのは虚構にすぎないことを彼は十分に知悉しているようだ。あるいはそれを物語と言ってもいいし、なんなら歴史と言い直してもいいだろう。フランス語で歴史を意味する単語、大文字のイストワールが小文字で始まれば物語を意味することを思い出せばそれは理解できることなのかもしれない。そうした物語に回収されることを詩人は周到に回避しつつ、イメジの断片化に賭けているかのようにも見える。さらに詩人はこう書く。

  <戯れに主格のない銃声が/ことり 蝶結びの歴史の水脈に鍋が消えた> (第七篇あれから母となる人の陰画は)。蝶結びの歴史とは公式の歴史記述ということだろう。教科書検定で問題になるようなもののことだが、その水脈で鍋が消える。鍋とは生活の具体物のイメジ。私たちの生活の具体が歴史という抽象の中に消えていく。生活の具体。それは肉体を持った個人のことであるとも言える。つまりは歴史と個人の問題が浮上する。サルトルや主体性論争を想起してもいい。これまで幾度となく論じられてきたテーマだが、詩人はここに性的なイメジを導入しさらに物語の断片化に賭けることで、新たな詩的次元での表現を試みているように思える。

  <本当のことをいわないまま/ひとり去り/またひとり/解き放たれた過去の眼差しから/肉が殺がれる> (第四篇魂のかすかな声)。 <あったことは言葉にならない/平成の物語が笹舟のように浮いて 流れ/堕ちるもどかしさ> (第六篇コラージュに似た笑い)。物語は甘美な誘惑の手を差し伸べる。だがそれは実は陥穽への誘いでもあるのだ。実際安易な物語に回収された回顧談なら私たちは腐る程目にすることが出来るではないか。そうした陥穽の一歩手前で敏感に危機を察知し身を翻す仕草を演じられるかどうかが詩人たる倫理的資質を決すると言って過言ではないとさえ思う。

 だがことはそう簡単ではない。時代とは言説空間のことであり、それはいたるところにあり、もちろん我々も何らかの言説空間に捉えられて生きているからだ。 <かくあるべきことの仮構に生きて/とめどない語りの中に融けていく母の/滑る時間> (第二篇残った笑い)と詩人は書く。あるいは、 <ずっと ずっと/自分であったためしがない/これから先もそうだろう> (第十七篇たとえば痕跡)と。かくあるべき仮構とは何か。自分自身であったことがない人間の有りようとは何か。外部から押しつけられた行動規範や価値観の桎梏の中で生きること。ここで是非とも私は第十六篇(ひとり去り)を見ておきたい。 この作品には丸山真男による二つの文章が引用されている。それらは丸山による分析からの引用で、ひとつは日本無謬論、ひとつは反戦論、つまりは二つの立場が示されている。 <日本国民を/永きにわたって/隷属的境涯に押しつけ/また世界に対して/今次の戦争に駆りたてた/ところの> これは後者の引用部分だが、私はこの詩を読むとこの部分から、質の悪い拡声器から流れてくるノイズだらけのアジテーションが聞こえてくるような気がしてならない。このノイズこそ時代(言説空間)と個人が触れ合う時に発する軋りの音ではないだろうか。

 そして母は老いてその肉体は失われつつある。 <小さく消える百年の結末に/再び 蝉がなきだす> (第十六篇ひとり去り)とは、詩人のひそかな決意の表明だとも読める。今世紀の終わりは母のあるいは母の世代の肉体の滅びの時に重なると同時に、老人ボケによる生々しい記憶の蘇りの時でもある。詩集の帯で星野徹氏が正確に見抜いたようにこれは <生涯に一度のエレジー> なのだ。

 なぜなら、肉体を失いつつある母が思想的表現の次元で時代とすれ違っていく光景を描くことができるのはこの現時点をおいてないからである。

 かくしてあらゆる描写はイメジの錯綜体としてダブルミーニングに満ちている。私は最初にこの詩集を通 読した時、最後のあたりまで来て涙が出そうになったことをここで正直に告白してもよい。安易な追憶談に堕すことなく、母と母が表象するものと対峙し続けるために詩人が要した時間と労力そしてその精神的佇立力とでもいうようなものに感服しつつ、よくぞここまでという思いを禁じ得なかったからである。

 母はアルツハイマーを病む。お茶を飲んだか飲まなかったかも分からなくなった母は、ふらふらと彷徨い出る。その背中に詩人は、詩集の終わりあたりで<どこへ行くのですか> と声をかける。それは断じて母にだけかけた言葉ではあるまいと思う。詩人はいったい誰に向かってそう問いかけているのか。二十世紀の最後の年に刊行されたこの詩集の中で、 <どこへ行くのですか> という問いかけは誰に向かって発せられているのか。

大島邦行『魂、この藁の時間』1999年4月思潮社刊 2,200円税別
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