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text/ 高梨 晶
 

ンガの中でキャラクターは成長するということをこの作品ほど如実に表しているものはないかもしれない。

 もはや国民的マンガとも言える作品なのでご存知の方も多いだろうが、主人公は山岡士郎と栗田ゆう子。ともに東西新聞社の文化部に勤務し、社の一大企画「究極のメニュー」を担当している。脇役も多彩で、大原東西新聞社主、小泉編集局長、谷村文化部長、富井副部長、板山ニューギンザデパート社長、陶芸家唐山陶山。そして海原雄山。海原雄山は北大路路山人をモデルに、陶芸家、書家にして食を芸術として扱うことのできる最高の美食家として描かれている。雄山は自らの芸術の達成には厳格で妥協がない。実は山岡士郎は雄山の勘当された(あるいは飛び出した)息子であり、山岡は、自分の母親が死んだのは父である雄山に酷使されたからだと思いこんでいる。

雁屋哲/花咲アキラ
『美味しんぼ』
小学館ビッグコミックス
全82巻(2002年11月現在)
セット価格40,272円
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      ┐         
   軌 偉 つ 山  
   道 大 ま 岡  
   修 な り が  
   正 父 こ 海  
   さ を の 原    
   れ 乗 物 雄    
   た り 語 山    
   こ 越 が に    
   と え  `勝    
   を る   て    
   意└    な    
   味 教   い    
   す 養   の    
   る 小   は    
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     し          
     て          
                 
                 

わず海原雄山を美食家と言ってしまったが、確かに、当初海原雄山は美食自慢の芸術家であるように描かれていた。例えば文庫版第2巻・第9話「料理のルール」において、カモ料理で有名なパリの一流レストランが東京に支店を出したパーティに招かれた雄山は、持参したわさび醤油でカモを食べて見せ、そのレストランの、カモの血を使ったソースよりも日本のわさび醤油の方がいかに優れているかを語る。これに対し山岡士郎は、別 の席で海原雄山が用意した懐石料理のまぐろをマヨネーズで食べて見せて、それが美味であることを示し、しかしだからといっていつの場合もそのような食べ方がいいわけではなく、その文化の特有さを尊重することの意義を説く。この当時の海原雄山はまだキャラクターとしては完成しておらず、絵も、いかにもあくの強い人物として描かれている。しかし時を経るにつれて、海原雄山は容易には乗り越えることができない一大芸術家としてキャラクター化が完成されていく。

 この当時は前述のように息子山岡に言い負かされるシーンが多いが、後になるにつれて山岡士郎は決して勝てない。雄山は「至高のメニュー」という対抗企画を担当し、山岡の「究極のメニュー」と対決していくことになるが、ほとんど山岡は勝てない。これはつまりこの物語が、「偉大な父を乗り越える」教養小説としての性格を持ち始めたときにそのように軌道修正されたということを意味する。海原雄山という偉大なる山脈を乗り越えようとする過程で山岡士郎は苦しみながら人間的に磨かれていくことになるが、これはトーマス・マンの『魔の山』あたりを指してよく言われる、若き主人公が成長していく過程を描く物語の類型に近いものだからだ。そして、父と子の確執と和解というテーマもここには加えられている。文庫版第32巻の山岡士郎と栗田ゆう子の結婚式で語る海原雄山の妻のエピソードは感動的である。

 

泉編集局長にしてもそうで、登場時は大原社主にも楯突く人物として描かれているが、後には社主にはおべっかばっかりである。このようにマンガの中でキャラクターの設定は変化していく。特に長編マンガにおいてはそのようなことがしばしば起こる。これはマンガそのものが次第に成長していくことの証左でもあって、長期連載マンガ特有のご都合主義と言われたとしても、恥じることではない。

 しかしこのマンガはそのような教養小説としての面もさりながら、日本人の食生活に対する問題提起をおこなっているという点でも特筆されるものである。これは誰でも一読すればわかることだ。本当にこのマンガは単なる娯楽作品を越えて日本人の食生活に大きな影響を与えたのではないだろうか。例えば日本酒。終戦直後の物資不足の中で作られた三倍醸造という技術によって、酒を三倍に薄め工業的に作られた醸造アルコールを加え、さらに水アメやブドウ糖やグルタミン酸を加えて味を整える。これが現在販売されている大メーカーの酒の大半だと言う。(文庫版3巻・第6話「酒の効用」)わたしはこれを読んでから、日本酒を買うときは成分表示を見るようになったし、以前よりも純米酒を買い求めるようになった。実際にわたしの食生活に影響を与えたことになる。同じことがビールについても言えて、文庫版第11巻・第6話「50年目の味覚」では、多くのビールは麦芽とポップ以外にコーンスターチと米を使っていると指摘している。わたしはそれ以来、ビールの成分表示にも目がいくようになった。

 
 
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の他、醤油、味噌、豆腐…と技術革新の美名に隠れて、いかに本来の味と安全性が失われているかを説くし、捕鯨問題、長良川問題、輸入米の問題、輸入フルーツの農薬の問題、と様々な政治にも関わる食品の問題を取り上げている。そしてそれらは読者の食生活に影響を与えている。本誌吉田編集長などは、すでに日本人の食生活の枠組みを作っている作品とまで言っていたな。果 たしてこの作品をどれほど多くの人が読んでいるか分からないので何とも言いようがないが、大きな影響力を持っていることは否定できない。

 それにしても不思議な作品だ。

 この作品は、脚本を雁屋哲が担当し、画を花咲アキラが担当している。画の花咲はほとんどこの作品しかない。この大ヒット作品にかかり切り状態。これじゃあまるで「こち亀」だぜ。画風は拙くはないが、とりたててその画風によってマンガ表現に何かしらの影響を与えるようなものではない。それでいて、なのである。それでいてこの作品は大きな意義を持つ作品となっている。

 雁屋哲にしても、多くの作品に脚本を提供しているが、この他の作品は『男組』(画・池上遼一)や『野望の王国』(画・由起賢二)などで、つまりバイオレンスが多い。この作品だけが彼の作品歴の中では異色だ。

 文庫版では山岡士郎と栗田ゆう子の結婚をもって第1部終了となっている。しかしその後連載は継続し、すでに山岡夫妻には子どももできた。文庫版でも第2部の刊行が待たれる。(高梨・T・晶)

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